霊性入門講座

C25 私は宇宙よりも大きい


この「水の講座」では、心の汚れを落とすことを取り上げています。これまで、「心の汚れ」とは「悪」ではないこと、それは心の中の固定観念であること、そして、その中には過去の人生で作り上げた未消化の感情の塊などがあることをお話ししてきました。
今回は、少し違うテーマを取り上げましょう。
 
私たちは、自分を「肉体という物質である」と考えています。霊的なことに少し目覚めた人は、「自分は霊である」ということは認めますが、同時に、「霊である自分が肉体の中に入っている」というイメージを持ちます。これが、普通の人の霊についてのイメージではないでしょうか。
 
真実はそうではありません。私たち、霊というものは、いかなる物質とも関係がありません。霊が物質に入っているのではありません。なぜなら、物質というものは存在していないからです。自分が霊であるということを知ることは、同時に、霊以外には何も存在しないということを知ることです。このことを徹底しないと、二元論に陥ります。
 
以前、私のサイトを見て、「これは霊肉二元論だ」と言った方がありました。それで私は「二元論ではなくて、霊一元論です」とメールをしました。しばらく、メールのやり取りをしていましたが、その人は、私の言うことが理解できなかったようでした。

 一元論、二元論というのは、何が根本的な存在なのか、ということに関する哲学的な考え方の種類で、簡単に言うと三つのタイプがあります。
 
一つは、物質が根源的な存在であって、人間の精神活動、心、霊、神といったものは、すべて、物質の塊である脳の働きによって生み出された想念である、と考えるものです。これを物質一元論あるいは唯物論と言います。ご承知のように、現代人の多くは唯物論を信奉しています。なぜそうなるかというと、これが日常の感覚的体験に最も近いからです。

二つ目は、心が根源的な存在であって、物質世界は心が描いている風景画に過ぎない、と考えるものです。これを精神一元論あるいは唯心論と言います。細かく言えば、根源的な存在は、心なのか、精神なのか、霊なのか、神なのかと言った議論はありますが、そのあたりはとりあえず無視しておきます。

三つ目は、物質と精神がともに根源的な存在であると考えるもので、これを二元論と言います。


この三つの考え方は、いずれも何千年も前から存在するもので、どれが正しいか、いまだに決着がついていません。


私は、この三つの考えのうち、論理的にいちばん矛盾がないのは、唯心論であると考えています。

唯物論は、物理法則によって運動する物質が、なぜ「自分」という自覚を持つのか、なぜ自由意志を持つことができるのか、という難問を抱えています。そこで、過激な唯物論者は、「自由意志というものは幻想である」と言います。自由なように見えて、本当は自由ではないのだ、というわけです。二元論は、物質と精神がどうして互いに作用しあうことができるのか、という難問を抱えます。唯心論は、論理的には矛盾がないと思いますが、私たちの日常の感覚的体験に最も大きく離反しています。
 
私のことを二元論だと書いた人は、物質が根源的な存在であることは自明の理(わかりきったこと)だとして、少しも疑っておられなかったのだと思います。したがって、霊が根源的な存在であるという私のサイトを見て、霊肉二元論であると考えられたわけです。
 
はっきり言いますが、私は二元論ではありません。「霊一元論」です。根源的な存在は「霊のみ」であって、物質世界は、霊が思い描いた仮想現実なのです。目を開けて、あなたの周りにあるものを眺めてください。机も椅子も、本も、テレビも、食べ物も、すべて架空の存在です。あなたの肉体も仮想現実です。何かを食べておいしいというのも、走ったら疲れるというのも、すべてが幻想です。夢の中だって、走れば疲れるではありませんか。
 
物質世界が確固たる現実であるという観念は、私たちが持っているもっとも根源的な「心の汚れ」です。これによっても、「心の汚れ」が「悪」ではないことが分かると思います。心の汚れとは、物質世界の体験を生み出すための心の中の「しかけ」なのです。
 
物質世界が現実であるという観念を捨てることが、霊性を取り戻すためには、絶対に必要です。そのために、私は「物質世界は幻想である」と言います。けれどもこの時、物質世界を「小さな無価値なもの」と考えるのではなく、自分を「物質世界より大きなもの」と考えるようにしてください。
 
物質世界は幻想だからつまらないものだと考えると、実はいちばん変えなければならない観念をそのまま残してしまいます。それは「自分が肉体である」という観念です。私たちは、無意識のうちに、肉体と自分を同一視する観念を持っています。それをそのままにして、「世界は幻想である」と考えると、物質世界は、麻薬に侵された人の幻覚と同じことになってしまいます。

けれども、物質世界が幻想であるというのは、「肉体の脳が描いている幻想ではない」のです。このことを徹底して、あなたの心にしみこませてください。
 
「物質世界は幻想である」と考えるのではなく、「自分は肉体ではない」と考えてください。物質世界はそのままにしておいて、自分が、肉体を超え、宇宙を超え、物質世界をはるかに超越した存在なのだと、そちらのほうに注意を向けてください。
 
たとえば、いま、2歳くらいの小さな男の子と女の子を連れたお父さんが海に遊びに来ていると考えてみてください。浜辺に打ち寄せる波は、子どもたちの背丈と同じくらいの高さがあります。子どもたちにとっては、海は楽しいけれども、恐ろしい世界です。けれども、背の高いお父さんにとっては、波はひざぐらいまでの高さしかないのです。海は、のどかで、やさしい、癒しの空間です。
 
物質世界も同じです。今、あなたは2歳の子どもと同じくらいの背丈しかないので、物質世界がすべてだと考えています。けれども、本当は、あなたは100メートルもの背の高さがあるのです。浜辺に砕ける波は、あなたの足のつま先にちょっと触れるくらいしかありません。人間が「霊である」というのは、こういうことなのです。あなたはただ、2歳の子どもになったら、海はどんな風に見えるだろうか、という遊びをしているだけです。
 
世界が小さいのではなく、あなたが大きいのだということに目覚めてください。心の汚れの最も根源的なものを一つ捨てることができます。

2005年10月1日

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