霊性入門講座

C32 存在を肯定する


前回、心の中のゴミを捨てた後には「愛」をつめこまなければならないという話をしました。では、どうしたら、心の中に「愛」を満たしていくことができるのでしょうか。
 
まず最初に、「愛」とは何かということを理解しなければなりません。私たちは、普通、「愛」とは、何かをすることだと考えています。人に優しくしたり、人を好きになったりすることが愛だと考えています。けれども本当は、愛とは、心の持ち方の問題なのです。愛とは、何かをしたり、しなかったりする前に、あなたの存在のあり方そのものの問題なのです。あなたが世界に対して基本的にどういう姿勢で立っているか、そして、自分自身に対してどういう姿勢を取っているか、それが「愛」の問題なのです。
 
「愛」とは、基本的に、「存在を肯定すること」です。世界を愛するとは世界の存在を肯定することであり、自分を愛するとは自分の存在を肯定することです。
 
けれども、誤解しないでいただきたいのですが、存在を肯定することは、そのもののいま現れている姿を肯定することと同じではありません。精神世界の教えの中に「そのままでいい」という教えがあります。すると、それを聞いて、いまの状態のままで変わらないでいるのがいいのだ、というイメージを持つ人があります。けれども「そのままでいい」というのは、「いまの状態のままがいい」という意味ではありません。

空の月を考えてみてください。月は満ち欠けをします。ある時はまん丸になり、ある時は半月になり、ある時は細い三日月になり、そして新月にはまったく見えなくなります。私たちが月を見るときには、このように変化する月の姿のどれかが見えています。いつも満月ということもなければ、いつも新月ということもありません。「そのままでいい」というのは、たとえて言えば、このように変化する月の姿のすべてを肯定する意味なのです。「そのままでいい」と言ったときに満月が見えていたとしても、「ずっと満月でいるのがいい」という意味ではありません。三日月になっているときに「そのままでいい」と言ったからといって、「ずっと三日月のままでいなさい」という意味ではないのです。
 
昔の人は、満月のあとの月に、立待ちの月、居待ちの月、寝待の月、と名前をつけて、少しずつ欠けていき、昇る時間が少しずつ遅くなっていく月を鑑賞しました。決して満月だけを賞賛したわけではないのです。「月を愛でる」心というのは、このように、月の姿のすべてを美しく感じる心なのです。
 
私の妻の母方の先祖は九州の人吉(ひとよし)の出身です。人吉には、鎌倉時代から700年続いた相良藩のお城がありました。日本の城の中には別名(ニックネーム)を持っているものがあります。有名なお城では、姫路城が白鷺城と呼ばれます。仙台の城は青葉城と呼ばれ、広島の城は鯉城(りじょう)と呼ばれました。広島の球団がカープ(鯉)という愛称をつけたのは、広島城の名前にあやかっているのです。人吉のお城の別名は繊月城(せんげつじょう)といいます。繊月というのは三日月あるいはそれよりももっと細い二日月のことです。これはまた何という美しい名前でしょう。昔の武士たちは、戦いの中でいつ突然に終わるかも知れない自分たちの人生のはかなさを、この細い月の姿に感じていたのでしょうか。
 
満月もよし、繊月もよし・・・さまざまな姿で現れる月のすべてを受入れ、すべてに美しさを感じる心・・・それが本当に月を愛する心なのです。
 
人間も同じです。人間の姿も、ある時は美しく、ある時は醜く、ある時は善に、ある時は悪に現れます。私たちは皆、この地球の上に何百回も生まれてきています。ある時は男になり、ある時は女になり、ある時は善人になり、ある時は悪人になり・・・ありとあらゆる姿で人生を送り、その光と闇の交錯の中で、生命のあらゆる可能な姿を表現し体験しているのです。

人間の存在を肯定するというのは、そのような「現れの姿」に惑わされず、ある時は善に、ある時は悪に、ある時は美に、ある時は醜に、ある時は賢に、ある時は愚にあらわれる・・・そのような存在としての人間をまるごと肯定し、賞賛し、支持するということなのです。

世界も同じです。世界には、美しい場所もあり、汚い場所もあります。楽しい出来事もあり、悲しい出来事もあります。ありとあらゆる善悪・美醜・苦楽を現すのが、この地球の姿です。世界を愛するとは、そのような多様な姿を現すものとしてのこの世界をまるごと愛するということなのです。
 
「愛」というものが、「現れの姿」を見ていないことに注目してください。満ち欠けする月の姿のどれがいいということではありません。そのように満ち欠けするものとしての月そのものを肯定し、是認し、受け入れ、抱擁するのが本当の「愛」なのです。人間と世界の千変万化する姿のどれがいいということではなく、そのようにさまざまな姿を現すものである人間そのものを愛し、世界そのものを愛する・・・それが本当の「愛」なのです。
 
「現れの姿」にとらわれなくなると、本当の愛を理解することができるようになります。

2006年5月1日

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