霊性入門講座

C17 存在の根源


霊性について理解するには、「神」のことを理解する必要があります。これから何回かにわけて、「神とは何か」「人間と神はどういう関係にあるのか」ということをお話します。
 
神といっても、ここでお話しすることは、特定の宗教とは関係がありません。神という言葉にアレルギーを感じる人は、「最も根源的な存在のことを神という」ということだけを覚えてください。神について、いろいろな宗教がいろいろなことを言います。あっちの神様より、こっちの神様のほうが偉いのだとか、俺の信じている神様が本当の神様で、お前のは嘘の神様だといって喧嘩をする人たちもあります。そういう話は、全部ナンセンスだと思ってください。神というのは、こんなものだとか、あんなものだという説明を聞いたことがある人は、そういう話を全部忘れて、まったくの白紙でこれからの話を聞いてください。
 
もう一度言います。「最も根源的な存在のことを神と名づける」・・・まず、神の定義として、これだけを覚えてください。私が「神」という言葉を使うのは、単なる便宜上の問題です。仏教を信じる人は「仏」や「仏性(ぶっしょう)」という言葉を使っていただいても結構です。老子の「道(タオ)」が好きな人は、それでも結構です。「宇宙」と呼びたい人はそれでもかまいません。その場合も、仏性やタオや宇宙についてのあらゆる知識を、ひとまず、すべて忘れてください。「最も根源的な存在を仏性と名づける」「最も根源的な存在をタオと呼ぶ」「最も根源的な存在を宇宙と呼ぶ」ということだけにとどめておいてください。
 
私が「最も根源的な存在を神と名づける」と言って、「神は最も根源的な存在である」と言わなかったことに注意してください。「神は最も根源的な存在である」と言うと、根源的存在以前に神という概念が存在することになります。仏性やタオや宇宙についても同じです。「宇宙は最も根源的な存在である」と言ったなら、私たちは根源的存在以前に、いま現実に私たちが知っている物質的な宇宙の姿を思い浮かべ、それが根源的な存在である、と理解するでしょう。

けれども、私は「宇宙は最も根源的存在である」とは言いません。「最も根源的な存在を宇宙と名づける」と言います。それは、単に話を進める便宜上、何かわからないものにとりあえず名前をつけただけなのです。それが、私たちの知っている「物質宇宙」とどういう関係にあるのかは、追い追いとわかってきます。
 
しつこく、言葉の問題を取り上げましたが、それは、皆さんが持っているあらゆる先入観を捨てて、これからの話を聞いてほしいからです。
 
最も根源的な存在は唯一つです。もし根源的な存在が二つ以上あるなら、それは「最も根源的な存在」ではありません。それらのすべての存在を成り立たせるもっと根源的な存在があります。

一神教というのは、神はただひとりであると言います。それは「最も根源的な存在はただ一つである」と言っているのです。けれども、今の世界では、一神教は誤解されています。一神教を信じている人たち自身も誤解しています。一神教の人たちは「私たちの信じている神だけが本当の神で、ほかの宗教の神は嘘の神だ」と言います。そのように考える強力な一神教が、いま世界に少なくとも三つあります。だから、世の中から宗教戦争が絶えないのです。けれども、本当は、「神はただひとりしかいないのだから、私が信じる神も、あなたが信じる神も同じ神なのだ」と考えるべきなのです。
 
最も根源的な存在は唯一つです。それをどんな名前で呼ぼうとも、同じものは同じです。神と呼ぼうが、仏性と呼ぼうが、仏と呼ぼうが、タオと呼ぼうが、宇宙と呼ぼうが、同じものは同じです。名前を超えたもの、名前の向こうにあるものをしっかりとつかんでください。
最も根源的な存在には形がありません。なぜなら、形があるものには、必ず外側があります。外側と内側の境目が形を作るのだからです。外側というのは、そのものとは違う何かがあるところです。たとえば、私たちの体には形があります。それは、私たちの体の外側に、体ではないもの、つまり空気の存在する領域があるからです。空気の領域と肉体の領域の境目が形を作るのです。けれども、最も根源的な存在は唯一つしかないのですから、その外側というのはありえません。最も根源的な存在以外のものが存在する領域はないからです。だから、最も根源的な存在には形がありません。
 
同じように、最も根源的な存在にはいかなる性質もありません。もし、最も根源的な存在が何か性質を持っているとしたら、その性質を持たない存在は、最も根源的な存在とは別に存在しなければなりません。そうすれば、最も根源的な存在は、そのものの根源ではなくなります。最も根源的な存在は、あらゆるものの存在の根源でなくてはならないので、いかなる特定の性質も持つことはできないのです。「神とはこんなものだ、あんなものだ」と、誰も定義することはできません。神はあらゆる定義を超えています。人間が持つことのできるあらゆる観念を超越しています。
 
聖書の中には、モーセという青年が神に会って名前を聞いたときに、神は「私は私だ」と答えた、というエピソードが語られています。これは、神が名前で呼ばれることを拒否したということを示しています。名前をつければ、それは神を定義したことになります。その名前でないものを、否定することになります。最も根源的な存在である神は、いかなるものをも否定しません。神にはいかなる名前をつけることもできないのです。
 
仏教には、仏性も空(くう)であるという思想があります。空とは、字義どおりには、空っぽであり、無であるという意味ですが、私は、この思想は、仏性というものがいかなる概念によっても規定することができないものである、ということを教えていると考えています。仏性とはこういうものだと定義することができない、あらゆる観念を超えている、ということなのです。
 
このように、最も根源的な存在は、あらゆる観念を超え、あらゆる定義を超えています。けれども、ここで止まってしまったら、私たちは、神について何もわからず、何も考えることはできず、何も話すことができません。そこで、私たちは、いろいろなたとえ使って話をします。いろいろな宗教がいろいろな言葉で神について語るのは、すべてたとえ話なのです。たとえ、どんなに厳密な哲学的な表現で語ったとしても、それはひとつのたとえ話に過ぎません。これから私が話すことも、すべてたとえ話です。皆さんは、それを聞いて、皆さんの心の中に、皆さん独自の理解を持ってください。

けれども、それで終わりではありません。神について何らかの理解を持つことは必要ですが、実はそれは第一歩に過ぎません。その次には、私たちは、それを捨てることを学ばなければなりません。神についての理解をもつのは、その理解を通り抜け、理解の向こう側に出て、その理解を捨てるためなのです。そこまで、この講座で、少しずつ進んでいきたいと思います。
 
次回は、この最も根源的な存在から、如何にして人間や物質世界が生み出されてきたか、ということをお話します。

2005年2月1日

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