アセンション

L4 少女とチョコレート(E4)



私たちが住んでいる世界の最も根本的な法則は「自分の意識を体験する」という法則です。実のところ、私たちが客観的現実だと思っている「世界」、「世の中」、「他人」そして「自分自身の肉体」・・・これらのすべては自分の心の中にある意識そのものなのです。
 
けれども、私たちはこのことをなかなか理解できません。理解したつもりでも、少しずれて解釈しています。このごろアファーメーションとか肯定的宣言と言って、自分が実現したいと思うことを宣言するとそのとおりになるという話をよく聞きます。確かにそのとおりなのですが、実はこれも、ふつうは少しずれて解釈され、そのためいくら頑張ってアファーメーションしても効果がないという結果を生んでいます。
 
「祈り」も「アファーメーション」も同じことなのです。本当の祈りとは何なのかを示す事例を一つお話します。
 
いまから50年以上前のことです。太平洋戦争が終結し、日本が米国の軍隊に占領されていた頃です。九州のある町に8歳くらいのひとりの少女が住んでいました。彼女の父親は牧師でしたので、彼女は教会に住んでいました。西洋には「教会のねずみ」という言葉があって、貧しいことの代表的な表現になっていますが、少女の家もとても貧しくて、おいしいお菓子などはめったに口にすることはできませんでした。もっともその頃は、日本全体が貧しく、どこの家の子どももお菓子にはありつけなかったのですが・・・。
 
どこでチョコレートの味を覚えたのか知りませんが、少女はチョコレートをお腹いっぱい食べたいとつよく思っていました。もちろん、そんな願いは少女の境遇にとっては、夢のまた夢のようなもので、とてもかなえられる見込みはありませんでした。けれども少女は想像力が豊かだったので、毎晩寝る前に布団の中で、家の押入れ一杯にチョコレートの箱が詰まっているのを想像しました。そしてそのチョコレートを食べることを想像し、その味を想像し、その香りを思い起こして、本当にそのチョコレートを食べたような気分になって、幸せいっぱいになって眠りにつきました。
 
朝起きると、もちろん、チョコレートなどは影も形もありません。けれども、少女は毎日毎日、そのようにして想像上のチョコレートを食べ続けていました。そんなことが1年ぐらい続いたでしょうか。ある日少女が学校から帰ると、お母さんが「押入れにチョコレートがあるから食べていいよ」といいました。少女は押入れを開けました。すると、押入れの中に、チョコレートの箱がほんとうに天井に届くほど積み上げてあったのです。
 
この話は実話です。チョコレートは、戦争ですべてを失った日本の子供たちに、米国の教会から送られた援助物資でした。ですからもちろん、この少女がひとりでそのチョコレートを全部食べたわけではありません。チョコレートは、少女の教会を通じて、その町の子供たちに配られたのです。けれども、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」というキリストの言葉(新約聖書、マルコによる福音書、11章24節)を、これほど見事に示している話はありません。
 
この少女が「チョコレートをください」とお祈りしたのではないことに注目してください。「チョコレートをください」という祈りは「いまはチョコレートがない」ということを意味しています。わたしたちは「チョコレートをください」と祈るたびに、「いま私にはチョコレートがない」ということを再確認しているのです。
 
はじめに言ったように、私たちが住んでいる世界の最も根本的な法則は「自分の意識を体験する」という法則です。「いま自分にはチョコレートがない」という意識を持ち、毎日それを再確認していたら、そのとおりに「チョコレートがない」という状態を毎日体験することになります。
 
この少女は「チョコレートをください」とは祈りませんでした。ただ、自分がチョコレートを食べて満足している状態を「前もって味わい」続けたのです。この望む状態を前もって味わうということが、祈りあるいはアファーメーションの本質なのです。
 
ですから、祈りやアファーメーションを、何かを得るための手段であると考えていると、それは決して成功しません。なぜなら、祈りやアファーメーションを手段であると考えると、結果を待ち望むことになるからです。結果を待つということは「今はその結果が手元にない」ということを再確認することになります。この微妙な感じがお分かりになるでしょうか。
 
少女は、祈りやアファーメーションのことについて深い知識を持っていたわけではありません。たいていの教会は、祈りを神様にお願いすることだと教えていますから、もしこの少女がその教えをよく覚えていたら、神様に「チョコレートをください」とお祈りして、かえってチョコレートを得ることが出来なかったかもしれません。けれども、少女はまだあまりそういうことを身につけていなかったので、想像の中でチョコレートを食べることを純粋に楽しんでいたのです。
 
少女は、押入れ一杯のチョコレートを見たとき「思わず足が震えた」と、あとで述懐しました。少女はそのとき始めて自分のしていたことが本当の祈りだったのだと気づいたのです。「お祈りって、本当に聞かれるんだ」と思ったそうです。そして、いい加減なことをお祈りをしてはいけないと強く思ったそうです。
 
けれども、「聞かれる」のは、私たちの心の中のある特定の思いだけではありません。私たちの心にあるすべての思いが神によって――あるいは宇宙によって――聞かれ、適当な筋道をつけて実現されるのです。私たちは、自分の心の中にある思いを全部自覚しているわけではないので、実現されたものを見て驚いたり、恐れたり、嫌悪したりします。けれども、いま、あなたの目の前に出現している世界はすべてあなたの心の中にあります。戦争もテロも災害も犯罪も、すべてあなたの心の中にあるのです。
 
外界というのは、ほんとうは存在しません。そこにはただ1枚の鏡があるだけです。それはあなたの心の中身を映し出す鏡です。そういえば、地獄の裁判官である閻魔(えんま)様がそんな鏡を持っているという話がありましたね。私たちはいままさに、その閻魔様の鏡を自分で覗き込んでいるのです。自分の心の中にあるものはすべてそこに映し出されています。そこに映っているもので、自分の心にないものは一つもありません。これは、何か不都合なことのようにも思われます。けれども、外に映し出された世界を見て、自分の心にあるものを知り、それを整理したり、浄化したりする努力をするなら、それがそのまま、私たちが霊性を取り戻すための道になるのです。

2008年1月22日掲載

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