対話2 意識の中の旅人との対話

9: 追加


1 意識の中の旅人: 私達は通常肉体の身体を自分自身だと考えます。そして意識は脳が創り出すと考えています。更に霊的な事を学んで行くうちに人間の本質は魂であり、意識そのものだという事に気付く様になります。ですがふと立ち止まって考えた時、“意識”って何? 魂と意識の関係は? と言う事に関して明確な答えを出せていない自分がいました。
 今回は“自分”とは何? と言う事について夜明けの見張り人と一緒に考えていこうと思います。
 
 それでは見張り人さんにお聞きします。
 見張り人さんは先日のメールで、<エゴだけでなく、私たちが「自分」だと考えているものは、すべて私たちの意識の中にある「想念」です>と仰いました。この事について質問します。
 私達が“自分”だと考えているものは沢山の“想念”の寄せ集めだと考えて良いのでしょうか。そう考えた場合、私達の自我は想念と言う複数のパーツから出来ているという事になりますね。また想念とは意識そのものと考えて良いのでしょうか。又想念とは私達が創り出している物なのでしょうか。
 この事についてもう少し詳細に説明して頂けますでしょうか。

2 夜明けの見張り人: <私達が“自分”だと考えているものは沢山の“想念”の寄せ集めだと考えて良いのでしょうか>ということについては、まったくそのとおりです、と申し上げます。「自分」だけでなく、他人も、自然界も、すべてが想念の集まりです。
 
 ところで、「想念の集まり」というような表現を使うと、「想念」という「もの」がどこかに存在するかのように錯覚しますね。実際には、想念という「もの」が存在するわけではありません。他人をあらわす想念がどこかにあるわけではなく、山や川を見せる想念がどこかにあるわけでもありません。旅人さんがAさんを見ているときには、旅人さんが「あそこにAさんがいる」と考えているだけなのです。旅人さんが富士山を見ているときには、旅人さんが「あそこに富士山がある」と考えているだけなのです。このことを指して、すべては想念である、と言います。
 しかし、実際に富士山に登れるではないか、と思われるかも知れません。けれども、それは、旅人さんが「いま自分は富士山に登っている」と考えているだけです。
 それは「夢」に似ています。私たちは、夢の中で、肉体を持ち、富士山に登り、疲れて帰ってくることができます。けれども、夢が覚めてみれば、富士山も、肉体もなく、疲れた自分というものもなかった、ということが分かります。
 
 <私達の自我は想念と言う複数のパーツから出来ているという事になりますね。>
 そう言ってもかまいません。上に述べたことから分かるように、私たちの自我とは、「これが私である」と私達が考えていることの総和です。私という「もの」が存在するわけではありません。「私は・・・である」「・・・が私である」という考えが存在するだけです。
 
 <また想念とは意識そのものと考えて良いのでしょうか。>
 私は「意識」という言葉を「考えたり感じたりすることのできる能力」という意味で使っています。したがって、「想念」は、その意識が考えた具体的内容ということになります。
 
<又想念とは私達が創り出している物なのでしょうか。>
 ここで使われている「私達」や「物」という言葉が、何を意味しているかが問題ですね。そのことに目をつぶって言えば、想念とは、私たちが作り出したものです。
 もう少し正確に言えば、「私達」は純粋の意識です。純粋の意識という意味は、純粋の「考える能力」ということです。誰かが考えるのではありません。ただ、考える能力だけが存在しているのです。
 その考える能力が、「私は肉体を持った人間である」と考えているので、私たちは「肉体を持った人間である」という状態を体験しているのです。「大勢の仲間がいる」と考えているので、「大勢の人間がいる」という状態を体験しているのです。すべては、これと同じです。旅人さんが見ている世界はすべて旅人さんの想念であり、私が見ている世界はすべて私の想念です。

3 意識の中の旅人: 詳しい説明有り難うございました。
 ここで私の中の理解を確認する意味で、今見張り人さんが述べて下さった事をまとめてみたいと思います。
 要するに“意識”と言う純粋に考える事の出来る能力を持った存在がいて、その意識が何か考えた結果生まれた内容や概念などを“想念”と言う訳ですね。

4 夜明けの見張り人: 「その通りです」と言ってもいいのですが、一つだけ、付け加えておきます。
 <“意識”と言う純粋に考える事の出来る能力を持った存在がいて・・>と言うと、また、その能力を持った存在はどんなものか、という疑問がわきます。そこで、私は、考える能力を持った存在がいるのではなく、考える能力がそれ自体で存在しているのだ、と言います。どちらでもいいではないかと思われるならそれでも結構です。けれども、私の言葉で言えば、私たちは考える能力を持っているのではなく、考える能力そのものなのです。
 「想念」については、理解されたとおりで結構です。

5 意識の中の旅人: ここで“意識”に付いて私の考えも書いておきます。
 考える能力そのものだと言うのは私も同意見です。 また意識は特定な形状を持たず、光や重力の様なエネルギー存在ではないかと考えています。

6 夜明けの見張り人: 私は、意識は光よりも重力よりも根源的なものだと考えています。旧約聖書のいちばん始めに、神が「光あれ」と言ったら光が生まれた、という記事があります。これは、意識が光を考えたから光という概念が生まれ、光を体験できるようになったということを神話的に描いていると考えています。あらゆるものが意識から生み出されますが、意識がそれらになるわけではありません。すべてのものは意識の中の想念に過ぎないのです。

7 意識の中の旅人: <意識がそれらになるわけではありません。すべてのものは意識の中の想念に過ぎないのです。>という事は、“根源的な意識”はこの宇宙に一つしか無くて、宇宙空間を含め、私達が目にするあらゆる存在は全て、この“意識”の中の想念に過ぎないという事ですね。

8 夜明けの見張り人: その通りです。“根源的な意識”は一つしかありません。それが本当の意味の「神」です。ところが、人間は「神についての観念」をいろいろ作り上げ、「神は一つしかないのだから、私の神が正しくて、ほかのはみな間違いだ」と言って喧嘩をするようになりました。これが、世の中の宗教の状況です。
 大事なことは、「神についての観念」ではなく、私たちが「肉体が自分だ」と思い込んでいる狭い意識の状態から脱却して、もっと広い、根源に近い意識状態にかえってゆくことなのです。

9 意識の中の旅人: 今週末も現実の世界では色々な出来事が有りました。何か最近身近で起きる出来事の全てはハイヤーセルフが私に、「早く気付いてね。」と語りかけているようです。

 意識が創り出した“自分”と言う想念の内容はこんな感じになるのでしょうか。
 「自分だと考えた肉体自身が自分の全てである。更にその肉体の外には意識の影響を直接及ぼせないと思い込もう。そしてその外に見える人間は自分とは全く勝手に振る舞う他人と思い込む事にしよう。」
 こんな感じでしょうか。旨く表現出来ていなくて申し訳有りません。

10 夜明けの見張り人: 意識が創り出した“自分”という想念は、まさにいま旅人さんがおっしゃったようなものです。
 
 私たちは、その狭い“自分”という意識に閉じこもっている状態から抜け出すことが必要ですが、そのために最初にしなければならないことは、「この肉体が自分である」という考えを捨てることです。それができないのに、「他人はすべて自分が作り出したものだ」と考えると、他人の人格を否定することにもなりかねません。
 これからしばらく、このことを考えていきましょう。

11 意識の中の旅人: 対話8で見張り人さんは<根源に近い意識状態にかえってゆくことなのです。>とおっしゃいましたが、私達は最終的に“根源と同じ意識状態”になる事ができるんですよね。
 
 <そのために最初にしなければならないことは、「この肉体が自分である」という考えを捨てることです。>私達が現在取り組んでいる「毎日の生活を送りながら不必要な想念を洗い出し手放していく」と言う作業がそれに当たるわけですね。
 
 <それができないのに、「他人はすべて自分が作り出したものだ」と考えると、他人の人格を否定することにもなりかねません。>現在の宗教の問題はまさにここにあるのでしょうね。
 “肉体が自分である”と言う意識状態のままで釈迦やキリストの教えを理解しようとするところにそもそも無理が有るのでしょう。
 釈迦やキリストは“「この肉体が自分である」という考えを捨てる”方法に付いても伝えているのでしょうか。

12 夜明けの見張り人: <私達は最終的に“根源と同じ意識状態”になる事ができるんですよね>という表現は微妙です。そのために、私はわざと「近い」という言葉を入れておいたのです。
 
 “根源と同じ意識状態”というのは「神」ということです。そして、私たちがそれに「帰る」ということは、可能とか不可能とかいう問題ではなくて、むしろ、それが私たちの本質であると私は考えています。 
 それにもかかわらず、それは「微妙」な表現です。なぜかというと、私たちの感覚や尺度で計ったときには、神は「無限の彼方」にあるからです。無限の彼方というのは、決して到達することができないという意味です。
 私たちが神に帰ることは確実です。けれども、あなたが神に帰る前に、あなたが今使っている「私達」という言葉の意味がまったく変わってしまうでしょう。今のあなたが理解できるような形で「私達が“根源と同じ意識状態”になる」ということは絶対に起こらないと思っていてください。私たちはいまよりもほんの少し“根源に近い”意識状態になるだけです。
 
 <釈迦やキリストは“「この肉体が自分である」という考えを捨てる方法”に付いても伝えているのでしょうか。>
 考えを捨てるのに特別な方法はないと思ってください。必要なのは、方法ではなく、意思です。「この考えを捨てるぞ」と決心してください。そうすると、「自分が肉体ではないとは、どういうことだろうか」という疑問がわいてくるでしょう。肉体が自分ではないとしたら、何が自分なのか、肉体は何なのか、自分はどこにいるのか、宇宙の中にいるのか、宇宙の外にいるのか・・・・そういう疑問がいくらでもわいてくるはずです。そのような疑問に自分で取り組んでみてください。
 エゴの理性はすぐに結論を探して、こういうことなんだ、と理解したふりをして、問題を終わらせようとします。けれども、もし、あなたの決心が本物なら、そのようなごまかしに惑わされることはないでしょう。徹底的に疑問を追及して、胸の中が爆発しそうになったなら、世の中に伝えられている方法がすこしは役にたつようになります。
 
 実は、釈迦もキリストも方法を伝えました。釈迦の伝えた方法は座禅であり、キリストの伝えた方法は祈りです。それ以外にも、たくさんの人がいろいろな方法を開発して、伝えています。
 けれども、他人が教えることのできるのは、ほんの入り口だけです。それは水泳の教科書のようなものです。日本には「畳の上の水練」ということわざがあります。教科書を読んだだけでは泳げるようにはならない、という意味です。だれでも、泳げるようになりたいと思うなら、実際に水に飛び込んで、おぼれたり、水を飲んだりしながら、一生懸命に練習をするほかはないのです。
 霊性の道も同じです。最も重要なのは「決心」です。そして、あとは一人ひとりが、自分で歩きながら道を発見してゆくほかはないのです。

13 意識の中の旅人: <今のあなたが理解できるような形で「私達が“根源と同じ意識状態”になる」ということは絶対に起こらないと思っていてください。私たちはいまよりもほんの少し“根源に近い”意識状態になるだけです。> この部分について私の理解が微妙なので少し確認しておこうと思います。

 私はここの部分をこう捉えました。
 私は子供の頃父親が毎日仕事に行くのを見て、「大人って凄いな」と思っていました。ですが子供の頃の私では仕事の辛さや大変さ、その他多くの大人社会の事について理解する事は決して出来ませんでした。それは大人になってから経験して初めて理解できたことです。
 根源の意識もそれと同じだと考えます。肉体が自分だと思い込んでいる現在の意識状態からでは到底理解不可能でしょう。私達の意識が有る程度拡大し目覚めた段階になりそしてその意識状態を自分で実際に経験してからでないと、根源について正しく理解する事は出来ないのだと思います。
 
 <「私達」という言葉の意味がまったく変わってしまうでしょう。>と見張り人さんは表現されましたが、私の意識が幾らかでも拡大した時には、「私達」と言う言葉の意味だけでなく、宇宙全体の認識すらも180度変わっているのかも知れません。
 私にとっての“真実の内容”が変わっているでしょうから。
 
 <そういう疑問がいくらでもわいてくるはずです。そのような疑問に自分で取り組んでみてください。>そう言う疑問は私も常々頭の中に有りますね。書物や人の話を幾ら聞いても実際に体験していない事は理解出来ないですから。
 現在の私に出来る事と言えば、数少ない神秘体験を基に、色々連想してみること位です。また瞑想時の感覚が何かヒントを与えてくれる様な気もしています。
 
 <エゴの理性はすぐに結論を探して、こういうことなんだ、と理解したふりをして、問題を終わらせようとします。>確かにそう言った落とし穴も有るでしょうね。ただ私は実際に自分で体験してみるまで追求心はやめないと思います。実際に見たり、体験したりしないと気が済まないという、“理系人間”の癖でしょうか。(笑)
 
 <最も重要なのは「決心」です。>「俺は必ず霊性を回復するぞ」という決心ですね。
 これは1年前、わたしがまだ“契山館”の会員であった頃からずっと強く持ち続けています。「初心忘れべからず」と言うことわざのとおり、これからも大切に持ち続けたいと思います。

14 夜明けの見張り人: 旅人さんのおっしゃるとおりです。エゴの理性は先の先まで分かりたがり、また、分かったふりをしたがるのですが、本当は私たちはいまよりもほんのちょっと先を理解できるだけです。けれども、そのほんのちょっとを実際に進めば、それだけで、今まで真実だと思っていたことがどれほど真実から遠いものであったか、ということが分かるようになります。
 私たちは、そのようなことを繰り返しながら、すこしずつ魂のふるさとへとかえっていくのです。

15 意識の中の旅人: 私達の現在の人生と同じなんですね。「今を大事に少しずつ進んで行きなさい」という事でしょうね。
 
 すこしここで脱線して対話12の内容に戻りたいと思います。
 「この肉体が自分である」と言う事を捨てる方法としてキリストが伝えた方法に“祈り”が有ると見張り人さんは前回仰いました。この祈りについて簡単で結構ですので解説して頂けませんか。私が祈りと聞くと、神社なので手を合わせて神様に何かお願い事をしている姿を想像します。

16 夜明けの見張り人: とてもよい質問です。ほとんどすべての宗教が何らかの「祈り」の行為を持っており、そして、ほとんどの宗教で「祈り」の本質が忘れられていると思います。
 
 旅人さんがおっしゃるように、私たちは、祈りを「神にお願いすること」であると考えています。けれども、聖書にはこういう言葉があります。
 「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存知なのだ。」
 キリストが「あなたがたの父」と呼んでいるのは神のことです。その神は、私たちが願う前から、私たちに必要なものを知っておられる。そのような神に、私たちは何も願い事をする必要はないのです。
 
 またキリストは次のように教えました。
 「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから言っておく。祈りもとめるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」
 
 「祈り」には、三つの重要なポイントがあります。
 その第一は、私たちの願いはすべて自動的にかなえられるということです。キリストは「祈りもとめるものはすべて既に得られたと信じなさい」と教えました。これは、私が、人間はすべて自分自身の意識を体験する、と言っているのと同じです。私たちが求めるものを心の中に持てば、それは自動的に体験の世界に現れるのです。
 ところが、ここで私たちは混乱します。私たちは、「何かをほしい」と思えば、その「何か」が実現すると思うのです。けれども、私たちが「何かをほしい」と思っているとき、私たちの意識の中にあるのは、「いまはそれがない」という思いであり、「それがあったらいいな」という思いです。だから、私たちは、「それが無くて、それをほしがっている自分」を体験するのです。「祈りもとめるものはすべて既に得られたと信じなさい」というキリストの教えが、どれほど重要なものであるかがお分かりになるでしょうか。
 
 第二のポイントは、私たちの心が分裂していてはならない、ということです。キリストは「山に向かって『海に入れ』といってもそのとおりになる」と言いました。ただし、これには条件がつきます。「少しも疑わずに、自分の言ったとおりになると信じるならば」ということです。私たちはどうでしょうか。山に向かって「動け」と言い、山が動くことを少しも疑わずにいることができるでしょうか。私たちは山に「動け」と願うことはできますが、命じることはできません。心の中に、「山が動くものか」という思いがあるからです。これが、心が分裂しているという状態です。キリストが「少しも疑わず」と言ったのは、このような「実現するものか」「とても難しい」という思いが、心のどこにもないという状態を意味しています。「信じる」とは心の中が一色になることなのです。
 
 第三のポイントは、エゴの小さな知恵で、あれがほしい、これがほしいというのをやめなさい、ということです。「神は、あなた方が願う前から、あなた方に必要なものをご存知なのだ」とキリストは教えました。ただ、神が与えるものを黙って受け取りなさい、それがあなた方にとって最善のものを受け取る方法なのだ、ということです。
 
 祈りというのは、神に願い事をすることではありません。願い事をやめるのが祈りです。祈りとは、私たちの心の波動を神の波動に同調させることです。私たちの心が神に同調したときにはじめて、私たちは自分が肉体であるという思いを完全に捨てることができます。そして、「少しも疑わなければその通りになる」とキリストが言ったように、私たちは「肉体でない自分」を体験するものとなるのです。

17 意識の中の旅人: 祈りとは、今現在全てのものが既にもたらされているという事を心の底から信じる事。またそれを達成する為に、内面の不要な想念を解放する行為または過程と解釈すれば良いのですね。
 私は毎日、「現在の人生を有りのままに、素直に、感謝して生きる。」と言う事を意識して暮らしています。この行為も“祈り”の一種なのでしょうか。

18 夜明けの見張り人: そのとおりです。私たちが持っているすべての想念が祈りです。無意識の中にあって自分自身で気づいていないものまで含めて、文字通りすべての想念、すべての信念、すべての感情、すべての行動が「祈り」なのです。
 自分にとって都合のよい想念だけが祈りではありません。自分に都合の悪いものを生み出す想念まで含めて、すべての想念が祈りなのです。
 私たちは毎朝、新聞やテレビのニュースでたくさんの不愉快な出来事を目や耳にします。そのたびに、「いやな世の中になったなあ」とか「恐ろしい世の中になったなあ」と感じます。それが祈りであることに気づいてください。それが「恐ろしい世の中」を再生産していることに気づいてください。
 私たちは、自分の生活の先行きを案じて、「うまくいきそうにない」とか「こうなったらどうしよう」と心配をします。それも祈りなのです。心の中の心配が心の外に心配を生み出し、心の中の怖れが心の外に怖れを生み出します。
 
 聖書は「いつも喜んでいなさい。どんなことにも感謝しなさい」と教えます。これは、「何かがあったら感謝しようではなく、先に感謝しなさい」と言っているのです。そうすれば、それが外の世界に映し出されて感謝の原因になることが起こるのです。
 
 すべての人に対して最善が訪れることを祈ってください。祈るというのは願うことではありません。願うと、「今はそれがない」というところに焦点が当たります。願うのではなく、想像してください。すべての人に最善の状況が訪れていることを想像してください。そして、それが現実になるよりも先に感謝してください。現実になった状況を心のうちで生きてください。あなたの心のすべてがその想像一色に染まったら、それは実現します。それがあらゆる祈りの極意です。

19 意識の中の旅人: 祈りに付いては大体わかりました。有り難うございました。
 
 私達は無意識のうちに自分に都合の悪い想念を創り出します。そしてそれが外界の現象となって現実化する度、「こんな筈ではない」と考え、恐れや悲しみの感情でもって対処します。その結果更に自分に都合の悪い想念を創り出すという悪循環を繰り返しています。
 「この悪循環に気付いてもうそんな自害行為はやめなさいよ」と、釈迦やキリストは教えたかったのですね。

20 夜明けの見張り人: その通りです。すべての意味ある宗教の教祖は、そのことを教えたと私は考えています。キリストや釈迦のように名前の残っている教祖だけでなく、教祖の名前など誰も知らない古い伝承や神話伝説の類も、そのことを伝えていると思っています。けれども、後世の人はその教えを誤解し、エゴの理性で理解できる範囲に押し込めようとしてさまざまな解釈を作り出しました。その結果として、たくさんの宗教が生まれ、互いに非難し合い、戦い、殺しあうほどになってしまったのです。 
 その最大の要因は、人間が「肉体が自分である」という観念から離れることができなかったからであると考えています。

21 意識の中の旅人: 本当にその通りだと私も思います。
 要するに、「自分」とは霊的存在が創り出した想念に過ぎない。その想念とは・・・肉体が自分自身であり、肉体の外にいる他の人間、物質、他の生命等全ては、自分と全く関係なく存在している。だから外界の現実は自分の思い通りにならないし、人間とはちっぽけな存在だ。よって、人間の人生とははかなく、辛いものである・・・というようなものですね。
 
 「肉体が全てではないんだ」と言うことを思い出すこと。これは霊性を回復する者が必ず乗り越えなくてはいけないハードルですね。
 
 さて、この対話は「自分とは何か?」と言う疑問から始まりましたが、その答えは既に出ているようですね。そこで、この対話もひと区切りついたようですし、もしよろしければ見張り人さんの方で、一旦対話を締めくくっては頂けないでしょうか?
 今回の対話は二回目で有ること、またテーマを絞っておこなった結果だと思いますが、実に突っ込んだ内容で、有意義な内容でした。今まで解っているつもりでしたが、こうして対話をしてみると、改めて多くのことに気付かされます。ありがとうございました。

22 夜明けの見張り人: ありがとうございました。それではこれで対話をひとまず終わることにしましょう。
 
 最後に、全体のまとめを一言、付け加えておきます。
 形のあるもの、目に見えるもの、手に触れることのできるもの・・・それらはすべて、私たちが、自分自身の心の中に描いている風景画です。私たちは、その風景画の中に、自分の肉体を登場させ、それを「私だ!」と思うので混乱してしまうのです。
 風景画がどのように変わっても変わらないものは何でしょうか。それが「あなた」なのです。あなたは風景画のカンバスなのです!

開始 2005年10月25日
終了 2005年11月22日

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