対話2 意識の中の旅人との対話

8: 89ー97(完了)


89 意識の中の旅人: <どんな言葉を持ってきても、愛を説明することはできません。> 単刀直入に言ってしまえばそうですね。私達が“本当の”愛を知る(思い出す)為にはまず、私達が元々住んでいた「霊的存在が住む世界」へ無事に帰還する必要があるでしょう。現在の人間がこの物質世界で色々表現して来た“愛”は、実はこの「宇宙の根源的な愛」に似せてつくったものだったのです
 
 もう少し解り易く言いかえるならば、「宇宙の根源的な愛」の一部分だけを真似て、物質世界の制限された言葉で表現したものが、今まで長い間哲学や宗教・その他歴史の隅々で登場してきた、「愛」に対する考え方です。
 
 見張り人さんは「根源的な愛」を、「あらゆるものを存在させている力」だと言いました。私もこれに付いては全くその通りだと思います。ここで敢えて私が追加して説明するならば、“あらゆるものを存在させる”為に必要な性質として、「宇宙の根源的な愛」には「ありのままを受け入れ、相手を干渉しない状態(性質)」があるという事です。
 この性質は、宇宙そのものの性質と言っても過言ではありません。
 
 「ありのままを受け入れ、相手を干渉しない状態」この性質そのものを、「根源的な愛」と呼んでも過言ではないと私は最近確信しました。
 
 次回は私がどうしてそう言った確信に至ったのかその経緯を述べながら、もう少し愛に付いて語ろうと思います。
 
 ひとまずバトンを、見張り人さんへと返します。
 
90 夜明けの見張り人: <私達が“本当の”愛を知る(思い出す)為にはまず、私達が元々住んでいた「霊的存在が住む世界」へ無事に帰還する必要があるでしょう>というのも真実ですが、同時に、本当の愛を思い出せば、そこがすなわち「霊的存在が住む世界」である、というのも真実です。「愛」であることと「霊」であることは同じことなのですから。
 
 <「宇宙の根源的な愛」には「ありのままを受け入れ、相手を干渉しない状態(性質)」があるという事です> これもそのとおりですが、もっと正確に言えば、宇宙の根源的な愛にとって「相手」というものは存在しないのです。
 宇宙にとっては、すべてが自分自身です。神にとっては、すべてが自分自身です。そして、私たちが霊的な真実を悟れば、実は私たちにとってもすべてが自分自身であることが分かるでしょう。なぜなら、「自分」と「相手」という別々のものが存在するという認識は、幻想に過ぎないからです。
 愛は「相手」という他人に対して働くのではありません。「相手」という対象を意識している間は、本当の愛ではありません。すべてが自分自身である宇宙にとっては、愛とは自分自身を愛することであり、自分自身を完成させることであり、完全な自分として存在することです。そして、それは私たちにとっても同じです。もし私たちが完全な自分でいようとするなら、私たちは宇宙のすべてを愛していなければなりません。なぜなら、宇宙そのものが私たち自身だからです。
 
 旅人さんの言葉が間違っているというのではありません。言葉で表現すれば、必ず陰になって見えない部分が生じます。それを少しばかり補足しました。
 
 では、旅人さんの話の続きを伺いましょう。
 
91 意識の中の旅人: この対話の中でも何度か出て来ている様に、「宇宙はひとつ」と言う考え方ですね?
 そして自分と他人と言う考えが少しでも感じられるうちはまだ、完全に霊性に目覚めてはいないのでしょうね。
 
 カルマの法則というのがどう言うものかご存じでしょうか。因果応報の法則とも言われ、相手に与えたものが自分に跳ね返って来ると言うものです。だから自分がされて嫌な事を相手にすると、結局自分に返って来てしまいますよ、と言う戒め的な意味で使われてきました。
 
 ですが元々宇宙は一つなのですから、当たり前と言えば当たり前ですね。「宇宙は一つ」と言う考えをこの3次元の言葉で判りやすく説明する為に使用した例えが、「カルマの法則」ではないかと、最近気付きました。
 
 見張り人さんの著書に「魂のインターネット」と言うのが有りますが、その中で宇宙は巨大なインターネット網だと表現しています。まさにその通りだと最近ますます感じています。
 
 それは、インターネット網において接続性を確認する為に“ping”と言うコマンドを使用しますが、これがまさしく「カルマの法則」と同じようなものではないでしょうか。
 
92 夜明けの見張り人: 愛というものを、私たちは普通「愛する」という動詞の形で理解しています。しかも、その動詞は他動詞です。他動詞というのは目的語を取ります。誰かを愛する、何かを愛する、というわけですね。
 
 けれども、ほんとうは、愛というのは一種のエネルギーなのです。物理的な熱エネルギーが物体を暖めるように、愛エネルギーは人の心を暖めます。愛エネルギーをたくさん持っている人は心の暖かい人です。愛エネルギーの少ない人は心の冷たい人です。
 
 心の冷たい人は、人のエネルギーを奪おうとします。人を憎んだり、攻撃したりするのは、愛エネルギーを奪おうとする行動です。
 
 けれども、よく考えてください。相手から熱エネルギーを奪うためには、自分は相手よりも冷たくなければならないのです。それと同じように、人から愛エネルギーを奪おうとすると、自分はもっと愛エネルギーの不足状態にならなければならないのです。
 
 これは宇宙の法則ですから、自動的に起こります。人から愛エネルギーを奪おうとすると、その人からもっとたくさんの愛エネルギーが宇宙によって取り去られます。これは宇宙がその人を罰しているわけではありません。ただ、宇宙はその人の意思を実現させるように働いているだけです。
 
 その結果、奪おうとすれば奪われ、与えようとすれば与えられる、ということが起こります。これがカルマの法則です。
 すべては自分自身であるから、人を愛すれば自分が愛される、人を憎めば自分が憎まれる、という言い方もできます。表現の仕方も理解の仕方もいろいろあるでしょう。けれども、法則そのものは変わりません。要するに奪うものは奪われ、与えるものは与えられるのです。
 
 もし、愛を動詞として理解するなら、他動詞でなく、自動詞だと考えてください。「愛する」というのは、愛エネルギーを放射することです。それは相手によりません。太陽がまわりに惑星があるかどうかに関わりなく輝くように、愛エネルギーは自動的に輝くのです。そして、その光の中にたまたま入ってきた人に対して、その光を与えます。相手を選んで愛するのは愛ではありません。善人を愛し、悪人を憎むというのは愛ではありません。ほんとうの愛は、無条件、無差別です。それはエネルギーであり、自分自身の本性として輝くのです。
 
93 意識の中の旅人: <もし、愛を動詞として理解するなら、・・・>
 私は「愛」と言うものを動詞としてではなくむしろ、形容詞的に捉えています。
 見張り人さんの言葉を借りれば「愛エネルギーが有る状態」という様な表現をしますが、どうでしょうか?
 
94 夜明けの見張り人: 愛という言葉を形容詞として使いたければ、それもいいのではありませんか。私がいろいろな言い方をするのは、言葉の問題ではなく、要は、常識的な解釈にとらわれずに、愛の本質を体得することに挑戦してください、という意味ですから。
 
95 意識の中の旅人: そうですね。私も見張り人さんの仰る通りだと思っています。
 
 そう言えば見張り人さん、この対話は僕が当初、「霊的世界の表現の仕方が宗教毎にどうして違うのか?」という素朴な疑問から始まったんでしたよね。
 そして対話を続けていくうちに私達は、次の様なことを思い出してきたのですよね。
 それは、
1.私達の本質は霊的な存在であること。(純粋な意識エネルギー体である。
2.肉体はこの3次元世界で生活する仮の姿(ゲームのキャラクターの様なもの)で
  ること。
3.そしてそろそろ私達は当初の計画通り、(自分達が霊的な存在であることを含め)
  全てを思い出す時期が来ていること。
 
 そして完全に霊的な存在を思い出す為に、この対話を継続していこうとお互い決めたのでしたよね。
 
 しかし、そろそろこの対話もフィニッシュが近づいて来ているのではないかと私も最近思う様になりました。なぜならば、私達はお互い霊性を回復するという事に関して一定の場所までたどり着きました。そこから先の段階は、人それぞれ違っていると思うのです。
 あえて言うなら、これ以上私は見張り人さんの霊性回復に協力出来る事は余り残ってはいないでしょう、またその逆も言えますね。
 これからの私は自身でハイヤーセルフや守護霊と言われる存在と更にコミュニケーションを密にしながら、自分の力で進んで行かなくてはならないと思っています。
 この対話を最後まで読んでくれた貴方なら、これから先は自分の足で完全な霊性回復までの道のりを歩く準備が出来ているはずです。
 次回は私から最後の締めくくりとして「霊性回復をする人がこの先必ず持ち続けていて欲しい、心構え」に付いて話をする予定でいます。
 
 上記テーマについて、見張り人さんからの意見も、是非お願いします。
 
96 夜明けの見張り人: 私も、このあたりでひとまず締めくくったほうがいいと考えていました。最後に<霊性回復をする人がこの先必ず持ち続けていて欲しい心構え>を話せということなので、お話しします。
 
 実は、私はこの心構えを、この対話の初めのほうで一度お話ししています。対話8からその部分を次にコピーしましょう。
 
 <今夜は、霊性の道を進む勇士が決してしてはならないことを三つお話します。
 
 まず第一は「自分と他人を比較すること」です。
 自分は、だれそれより上だとか下だとか、進んでいるとか遅れている、といった比較をするのでなく、ただひたすら自分を高める努力をしてください。それは、自分の心の中にあるものを探り、役目の終わったものを手放し、傷ついたところを癒し、霊性という高い目標に対して、心の全体を統一してゆく仕事です。それは他人と比較しても意味のないものです。他人と比較するのは、エゴの好きなことですが、そのようなエゴを真っ先に癒していかなければならないのかも知れませんね。
 
 第二は「自分自身以外のものに頼ること」です。
 それが、人であれ、本であれ、団体であれ、あるいは、座禅や瞑想といった特定の手段や特定の道具であれ、どんなものでも、それらを頼りにして、それらがあなたに霊性を与えてくれることはないのです。最終的に、あなたを導くものはあなた自身以外にはありません。それは、100パーセント自己責任の道です。
 これは、そのようなさまざまなものを学んではいけないという意味ではありません。学ぶのも、手放すのも、すべて自分の判断によって決めてください、ということです。初めは、その判断にエゴが介入して、誤った判断をします。誤ったと気づいたら、振り出しに戻って、やり直してください。そのうちに、正しい判断とはどういうものか、「匂い」でわかるようになります。常に、心のもっとも深いところから来る直感の声に注意を向けてください。恐れや不安や損得で道を選ぶのではなく、魂の喜ぶ声を感じながら道を選んでください。頭でなく、ハートで選んでください。そのうちに、正しいコースに乗っているかどうかに、体の細胞が反応するようになります。
 
 してはいけないことの最後は「自分自身を評価すること」です。
 自分は悟りを開いたかどうか、真理を得たかどうか、と自分で自分を評価しないようにしてください。霊性への道に終わりはありません。最終的なゴールにどれだけ近づいたかで判断しようとしたら、あなたには絶望しかありません。最終的なゴールは無限に遠いからです。
 けれども、あなたが道を進めば、自分も世界も変わってきます。何かの基準によって自分を評価するのでなく、自分がいま何に喜びを感じ、何に感動するか、を見つめてください。常に現在を感じ、現在に生き、現在に存在してください。あなたが体験できるものは、現在の瞬間だけです。それが、刻々と変わっていくのがわかるようになるでしょう。
 
 たとえを一つお話しておきます。
 霊性への道は山に登るようなものです。
 第一の戒めは、ほかの登山者と高さの比較をするな、ということです。あなたの道を歩く人は、あなた以外にはありません。みんなちがう道を登っているのです。比較には意味がありません。
 あなたがABCの順に上っていくところを、ほかの人はCABの順に上るかも知れないのです。あなたがCにいて、隣のひとがBにいたとしても、どちらが高いかわからないのです。他人と比較するのをやめて、ひたすら自分の道を歩くことに専念してください。
 第二の戒めは、地図やガイドブックに頼るな、ということです。地図やガイドブックをいくら眺めても、それを隅から隅まで覚えこんだとしても、それだけではあなたは一歩も山に登ってはいません。とにかく自分で歩く以外には登る方法はないのです。誰も同じ道を登る人はいないのですから、あなたが登る道のガイドブックを書ける人はいません。人が書いたガイドブックは、あくまで参考データです。自分の足元をしっかり見つめて、注意深く歩いてください。
 第三の戒めは、どれくらい登ったかな、と考えないことです。頂上は無限に高いのです。いくら登っても、頂上は見えてきません。けれども、登っていけば、空気が澄んで、風がさわやかになるのがわかります。周囲に美しい高山植物が姿を見せるようになります。絶えず今いる場所を楽しんでください。そして、絶えず登り続けてください。そのうちに、あなた自身の体が風のように透明になり、光のように輝くようになるでしょう。>
 
 いま、読み返してみても、私が申し上げることはこれ以外にはありません。旅人さんはこれまでどおり自分の道を歩き続けてください。また、この対話を読まれた方々も、自分の道を探して、少しずつ足を踏み出してください。歩いていけば、そのうちに、蝶や蜂や小鳥があなたの行くべき道を教えてくれるようになります。
 
 それでは、最後のコメントを旅人さんに願いします。
 
 この対話をこれまで続けてくださった意識の中の旅人さん、ありがとうございました。また、最後までこれを読んでくださった皆さん、ありがとうございました。
 
97 意識の中の旅人: <常に現在を感じ、現在に生き、現在に存在してください。あなたが体験できるものは、現在の瞬間だけです。それが、刻々と変わっていくのがわかるようになるでしょう。> はは、私が締めくくりとして言おうとしていたことを、見張り人さんに“ズバッ”と言われてしまいましたか。(笑)
 
 私は最近、上記の様な事を自分の言葉で次の様に表現しています。
 「現在の人生を素直に、ありのままに、感謝しながら生きる。」と
 
 さて、約1年間程続いたこの対話ですが、ここでひとまず区切りとしたいと思います。
 見張り人さんも言われていましたが、ここから先は、各自自分のやり方で霊性回復に励んでいって下さい。

(2005年6月20日 完)

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