対話2 意識の中の旅人との対話

6: 68−79


68 夜明けの見張り人: 人間は、覚えていてもいなくても、毎晩幽体離脱してどこかへ出かけているそうですから、あなたが、友人と一緒に出かけることがあっても不思議ではないと思います。
 
 けれども、私が言っている夢の階層構造というのは、少し違います。いまは、階層構造の全部ではなく、まずいちばん私たちに身近な「私たちが現実だと感じている世界」のことだけを取り上げています。階層構造の第一段階だけです。
 
 最近、特に若い人たちは、携帯電話で友達と話をすることが多いと思います。最近はカメラつき電話で自分の姿を相手に送信しながら話すこともできるようですね。一昔前には夢物語だったテレビ電話が現実になっています。
 
 このような電話で、互いに相手の顔を見ながら話しているとき、皆さんは何気なく「相手を見て話している」と思っているのではないでしょうか。でも、よく考えてみれば、あなたが見ているのは自分のカメラの中の映像ですね。
 
 もし、あなたの電話機の調子が悪くて、相手の顔色が悪かったり、声がゆがんでいたりしたら、(もし、あなたが相手の人の実物に一度も会ったことがなかったとしたら)、あなたは、本当に相手の人はいつもこんなに顔色がわるくて、いやな声でしゃべる人なんだと思ってしまうかも知れませんね。
 
 実は、私たちが体験している世界は、これに非常に似ています。私たちが見ている他人の姿、世界の出来事など、あらゆる「外界の出来事」は、実は自分の心の中に映し出された映像です。においをかいだり、触ったり、殴られて痛かったりすることも含めて、すべての感覚で受け取る「現実」が、自分の心に写っている(携帯電話の窓に映し出されている友達の姿のような)映像なのです。
 
 けれども、携帯電話の向こう側に本物の友人がいるように、私たちの心に映し出されている友人の姿の向こうには、本物の友人がいるのです。ただ、私たちは、本物の友人の姿を一度も見たことがありません。それはいわば、携帯電話でしか触れ合ったことのない友人なのです。
 
 私たちは、イラク戦争の本物の現実に触れたことはありません。インド洋の津波の現実も知りません。ただ、テレビと新聞が伝える情報だけで、世界の姿を想像しています。もしも、世界中のテレビと新聞が示し合わせて嘘を報道したら、私たちはそれを本当の世界の姿だと思うでしょう。
 
 実は、それと同じことが、私たちの体験する「すべての現実」で起こっているのです。私たちは自分の心に写っている姿を見て、本物の世界の姿を想像しています。もし、私たちの心の調子が悪くて、世界の姿をゆがめて映し出していたら、私たちはそれを本物の世界だと思うでしょう。
 私たちは、本物の世界には、一度も触れたことがありません。けれども、それは、本物の世界が存在しないということを意味するわけではありません。
 
 「あなたが見ている世界はすべてあなたの夢であるけれども、あなた以外のものがいないわけではない」と私が言ったのは、こういう意味です。これが、私たちに一番身近な世界の真実です。

69 意識の中の旅人: 見張り人さん、詳しい説明有り難うございました。
 
 今ふと思ったのですが、そうすると、同じ現実でも人によって見え方が微妙に変わってくるのでしょうか?
 
 私が以前、朝起きたら世界が少しばかり明るく見えた様な気がしたように。

70 夜明けの見張り人: <同じ現実でも人によって見え方が微妙に変わってくるのでしょうか?> まったくそのとおりです。あなたとまったく同じ現実を見ている人は一人もいません。
 
 それは理論的に考えてもそうですね。たとえば、二つのカメラを並べて同じ花の写真を撮ったとします。二つのカメラの位置は少し違いますから、そこから撮った花の写真もわずかに違って写ります。
 それと同じように、私たちは、一人ひとりが「自分の感覚」で受け止めた姿しか知ることはできないので、すべての人が、少しずつ、場合によっては大きく、違った世界を見て(体験して)いるのです。
 
 けれども、私たちは、みんなが同じ世界に住んでいると考えています。それは、私たちが、感覚で受け止めた姿の「向こう側」に「本当に存在する何か」があると考えており、それはすべての人に共通であって、感覚に受け止めた姿が人によって違うのは、受け止め方がそれぞれ不完全であるからだと考えるからです。
 
 確かに「本当に存在する何か」は存在します。けれども、それは、私たちが感覚で受け止めるような姿で存在しているのではありません。それは、純粋のエネルギーであり、波動です。それを受け取って具体的な姿を体験するのは、音楽を聴いて具体的な情景を想像するのと同じです。同じ音楽を聴いても、ある人は春の小川のやさしい流れを思い浮かべ、ある人は初夏の森の梢をわたるさわやかな風を思い浮かべるかも知れません。夏の夜空のきらめく星々を思い浮かべる人もあるかも知れません。中には、心が異常に恐怖で満たされているために、何を聴いても幽霊の恐ろしい叫びに聞こえてしまう人もあるかも知れません。
 
 「本当に存在するもの」―――それは「神」(あるいは「宇宙」、何でも好きな名前で呼んでください)の愛と生命の波動だけです。それを私たちは、自分で、いわば「勝手に」解釈して、自分の住む世界を創造(想像)しているのです。
 
 では、私たちの体験する世界が「みんな同じ世界に住んでいる」と錯覚して疑わないほど似ているのはなぜでしょうか。それは、私たちが「みんなで同じ世界をつくり、同じ世界を体験することにしよう」という合意のもとに、ゲームを始めたからです。
 
 長くなるので、いったん、このあたりで切ることにしましょう。

71 意識の中の旅人: 詳しい説明有り難うございました。見張り人さんの続きを聞く前に、私から一つ質問させてください。
 
 <私たちの体験する世界が「みんな同じ世界に住んでいる」と錯覚して疑わないほど似ているのはなぜでしょうか。それは、私たちが「みんなで同じ世界をつくり、同じ世界を体験することにしよう」という合意のもとに、ゲームを始めたからです。>と見張り人さんは仰いましたが、この合意をしたのは表面意識(エゴとも言っても良いかも知れませんね)ではなくて、潜在意識やさらにもっと奥の方にある無意識のレベルでという事ですよね。
 
 それから私たちの肉体その物も、波動であり、私達は肉体を持つ、一種の動物だという考えも錯覚だと言う事になりますね。

72 夜明けの見張り人: <この合意をしたのは表面意識(エゴとも言っても良いかも知れませんね)ではなくて、潜在意識やさらにもっと奥の方にある無意識のレベルでという事ですよね。それから私たちの肉体その物も、波動であり、私達は肉体を持つ、一種の動物だという考えも錯覚だと言う事になりますね。>
 まったくそのとおりです。無意識よりももっと奥のほうかも知れません。
 私たちは、ほんとうは、どんな肉体も持っていません。物質の身体も、霊の身体も、・・・・まったく何もありません。この真実を伝えようとして、昔から、いろいろな人がいろいろな言葉を使って表現しました。私は「意識」という言葉を使います。人間は「純粋の意識である」というのが、私にとっては、最も適切な表現だと思えるからです。
 けれども、これは、ほかの言い方をする人が間違っているという意味ではありません。もともと、人間の言葉では表現できないものなのです。ただ、いろいろな人が、自分が最も適当だと思う表現を使ったに過ぎません、
 
 「意識」というものには、大きさも形もありません。それは、別の言葉で言えば、考えたり感じたりする能力ということです。感じる能力があるといっても、自分以外に何か「感じられるもの」があるわけではありません。自分が考えたことを自分で感じるのです。それは、想像力の豊かな女の子が、「あま〜いお菓子」を想像して、そのおいしさを実際に感じるようなものです。
 
 この考えたり感じたりする能力は、神そのものの能力です。そのような意味で私たちは「神の分身」なのです。神は、私たちのような分身を無数に生みだしました。それは、私たちが、ありとあらゆるものを想像して作り出し、それを自ら体験する、という仕事をするためです。私たちは「神の分身」ですから、私たちが体験するということは、神が体験するということです。「私たち」は、「神があらゆることを体験する」というプロセスの一つの要素プロセスとして、存在しているのです。
 
 このような「創造し体験する要素プロセス」として生み出された無数の存在たちが、あるとき、一つの大きなテーマの下に、共同で一つの大きな世界を作り、その中で起こり得るありとあらゆる光と影を体験する、というプロジェクトを始めました。それが、私たちの地球という世界です。
 このプロジェクトに参加した「霊」たちは、私たち人間だけではありません。もっとも重要な参加者は地球そのものです。地球は、体験の舞台となる素晴らしい世界を創造して提供してくれました。そして、地球の上のありとあらゆる動物植物の霊たちが、その世界をさらに豊かにするために、プロジェクトの共同参加者として加わりました。さらに、数多くの天使や聖霊や妖精や守護霊など、今まで私たちが気づいていなかった眼に見えない世界のパートナーたちも参加しています。
 たとえていえば、このプロジェクトは、潜水服をつけて、海底の様子を探りに行く探検隊のようなものです。私たち人間になった霊たちは、「肉体」という潜水服をつけて、「地球世界」という海底に降りていきました。目に見えないパートナー達は、海上に舟を浮かべて、私たちに空気を送り届けるポンプを運転しています。そして、海底から私たちが発信する報告を受け取り記録して、プロジェクトの最高責任者である「神」のもとに届けます。いま、私たちは、このように大掛かりな、「物質世界探検プロジェクト」を実行中なのです。
 
 このプロジェクトのすべては、「意識の中の想像を体験する」という形で行われていますから、地球という世界も、私たちの肉体も、ほんとうは何も存在していません。それは、意識の中に作り出された蜃気楼のようなものです。それを私は波動とかエネルギーという言葉で表現します。それはエネルギーには形がないからです。形がなくて働きだけあるものを表現するのに、人間が使う言葉で、「エネルギー」ほど適切なものはありません。それで私は「エネルギーの波動」というような言い方をします。
 この意識の中の蜃気楼は、私たちにとって、まったく強固な現実であると感じられます。それは、私たちが非常に繊細で強力な「感じる能力」をもっているからなのです。私たちはその能力を使って、ある一つのテーマを追求してきました。それは「神の分身である私たちが、自分が神の分身であることを忘れたら、何が起こるか」というテーマです。そのために、私たちはあらゆる「霊的な真実」を忘れ、自分を物質の肉体である、と思い込む努力をしました。その結果が、現在の私たちです。
 
 いま、私たちはこの「探検」を終わらせる作業を始めています。地球も共同参加者の動物や植物たちも、みんな帰り支度を始めています。一部の者たちは、すでに移動を始めています。これがいま「アセンション」という言葉で呼ばれている現象です。私たちは、いままで努力して忘れてきた「霊的真実」を思い出さなければなりません。そのために、海上の共同パートナーである天使たちから、たくさんの情報が送られてきています。私が旅人さんと話しているのも、そのような帰還作業の一部なのです。
 
 またまた、長くなってしまいましたので、今回はこれで終わります。次回は、私たちがそれぞれ自分の意識の中に描いた世界しか体験できない、という制約の中で、どのようにして「共同の世界」を体験するか、ということに話を戻しましょう。

73 意識の中の旅人: 見張り人さんに詳しく説明して頂いたので、大分解り易くなりました。有難うございました。
 
 <昔から、いろいろな人がいろいろな言葉を使って表現しました。>そう言えば見張り人さんのWebページの中にも『般若心経』の解説が有りますね。その中で確か。私達の肉体や、現実世界も全て“幻”だと言っていますよね。お釈迦様もそのことを確か『空』と言う言葉で表現していたと思います。
 
 <私は「意識」という言葉を使います。人間は「純粋の意識である」というのが、私にとっては、最も適切な表現だと思えるからです。>私達は普段質量や形の有るものに慣れ過ぎているので、『純粋な意識』と言われても完全には理解できません。これらが完全に理解できる時が来るとすればそれは、私達が完全に霊性を回復した時ではないでしょうか?
 
 <ある一つのテーマを追求してきました。それは「神の分身である私たちが、自分が神の分身であることを忘れたら、何が起こるか」というテーマです。>と言うことは、私達は随分と勇敢な探検家とも言えますね。なぜなら、自分が神の分身だと言うことを忘れることは、大変危険な行為であるとも言えるからです。実際今私達は、自分が霊的存在で有ることを思い出すのに、大変苦労している訳ですよね。

74 夜明けの見張り人: <私達は随分と勇敢な探検家とも言えますね> そのとおりです。私たちはとても勇敢な探検家なのです。ひょっとしたら「無謀な」探検家だったのかも知れません。
 けれども、神は私たちを阻止しませんでした。それは、最終的には、私たちが成功することは絶対に確実だからです。なぜなら、神の分身である私たちに、失敗はありえないからです。
 
 誰がどれくらい苦労するかは、人によって違います。それは、その人自身が選んで決めることです。霊性を思い出す方法を忘れてしまった私たちに、さまざまなヒントを与えてくれる目に見えない存在がたくさんいますが、そのような存在が私たちに教えてくれるヒントを、どれだけ素直に受け取るかということも、苦労の程度を決める一つのファクターになります。
 
 けれども、誤解しないでください。苦労しないで、さっさと霊性を思い出すほうが「良い魂」だと思わないでください。もし私たちが探検家であるなら、地獄を探検するのも、天国を探検するのも、同じくらい価値のあることではないでしょうか。天国を探検するのが良い探険家で、地獄を探検するのは悪い探険家である、というわけではありません。善も悪もない、と私が言うのはこういう意味です。探検家である私たちを送り出した神にとっては、私たちの誰かが、苦労して、苦労して、神の分身であることを忘れる闇の深みを徹底的に体験してくることも、とても大切なことなのです。
 
 私たちは、どんな道を通ってこようとも、それらのすべてが意味のあることであり、等しく最高の評価を受ける価値があるのです。なぜなら、私たちはみんな「最高に勇敢な探検家」なのですから。
 
 さて、話を少し戻しましょう。私たちは一人一人、自分の心の中に描いた世界に住んでいるにもかかわらず、みんなで、同じ一つの世界の中に住んでいると考えています。そうなった理由は、私たちが「みんなで同じ世界をつくり、同じ世界を体験することにしよう」という合意をしているからです。
 けれども、皆が別々の世界に住んでいるという状況をそのまま放置していたら、一人一人の体験する世界はまったく違ったものになってしまいます。そこで、私たちは、ほかの人と絶えず情報交換をして、お互いが体験している世界を共通にするための微調整を行っています。
 
 たとえば、二人で同じ景色を見ているときに、一人が「あそこに白い鳥がいる」と言うと、もう一人がそれまでまったく気づいていなかった鳥に気づく、というような体験をしたことがないでしょうか。
 このような場合、私たちは、鳥は初めからいたのに気づかなかっただけだ、と考えます。けれども、本当は、気づかなかった人の世界に鳥はいなかったのです。もう一人が「鳥がいるよ」と言ったので、そこに鳥を置いたのです。
 実は、私たちが見ている世界、匂いをかいだり、声を聴いたり、触ったりして体験している世界は、情報として存在しているに過ぎません。それを私たちが、自分の心の中にダウンロードして感覚のスクリーンに表示することによって、それぞれの人の体験する世界が創られていくのです。
 鳥に気づいていなかった人は、その鳥の情報をダウンロードしていなかったのです。もう一人が、「鳥がいるよ」と言ったので、あわててダウンロードしたというわけです。
 
 私たちは、このようにして、無意識のうちに、絶えず互いが体験する世界を同じものにするための調整をしています。けれども時には、調整できないほど、二人の体験する世界が違ってしまうことがあります。
 幽霊や妖精の姿が見えたり、天使の声を聴いたりする人の場合がそうです。一人の人は、これらの情報をダウンロードすることに抵抗を感じないので、そういうものを体験してしまいます。けれども、もう一人の人は、無意識の中に、そのような情報に対する強い抵抗を持っていて、決してその情報をダウンロードしないので、二人の世界は一致しなくなります。
 どちらが正しいかを決めるのは多数決です。妖精の姿の見えない人が多数を占めていれば、「見える人はおかしい」という扱いをされます。もし、見える人のほうが多ければ、見えない人のほうが「可哀想な奴だ」ということになります。
 本当は、どちらも正しいのです。人は皆、別々の世界に住んでいるからです。

75 意識の中の旅人: <けれども、誤解しないでください。苦労しないで、さっさと霊性を思い出すほうが「良い魂」だと思わないでください。もし私たちが探検家であるなら、地獄を探検するのも、天国を探検するのも、同じくらい価値のあることではないでしょうか。> これに関して私の経験を述べておきます。
 私の友人に鬱病で苦しんでいる方がいます。その人は性格上物事をとかくマイナス思考に考える癖が有る為ストレスを人より余計に溜め込んでしまいます。そこで以前の私は少しでも気持ちを楽にしてあげようと思って現在この対話で話しているようなことを話して聞かせたことがありました。しかしその人は自分が見ている現実が全てだと思い込んでいる上、スピリティアルなことに異常な程抵抗感を持っているので全く聞き入れてくれませんでした。しかし有る時ふと思ったのです。この人はまだこの3次元現実世界ゲームに没頭していて醒めることを嫌がっているだけなんだと。
 この人も霊性を回復したあかつきには、「凄い大変なストーリーを乗り切ったんだぜ。」と笑いながら周りの人間(霊)達に自慢するのかも知れませんね。
 
  <本当は、どちらも正しいのです。人は皆、別々の世界に住んでいるからです。> と言うことは人類の集合意識と称される私達の無意識の内容が180度変わってしまえば、今でも確固たる現実だと認識している外の世界や、目の前に建っている高層ビル群までも一瞬で姿を消してしまい、別世界が出現するでしょうね。
 
 現代の最先端量子力学でも物質をどんどん細かく分割して行ったら行き付く先はエネルギーのみで質量を持った粒子すら存在しないだろうと仮定していますものね。

76 夜明けの見張り人: <人類の集合意識と称される私達の無意識の内容が180度変わってしまえば、今でも確固たる現実だと認識している外の世界や、目の前に建っている高層ビル群までも一瞬で姿を消してしまい、別世界が出現するでしょうね>
 そのとおりです。私たちが見ているのは、人類の集合意識です。したがってそれが変われば、その瞬間から、私たちは違う世界を見ることになるでしょう。
 
 けれども、もっと大事なことがあります。あなたが人類の集合意識を見ているのは、あなたがそれを見ることを選んでいるからです。コンピュータにたとえれば、あなたは、人類の集合意識をあなたの心にダウンロードして見ているのです。
 もし、あなたが、人類の集合意識を見るのをやめようと決心して、人類の集合意識をあなたの心にダウンロードするのをやめれば、人類の集合意識がどのようなものであろうとあなたはそれを見なくなります。
 
 そして、いま、いちばん大切なのは、一人一人が自分はどんな世界を見たいかということを選ぶことです。もし、あなたがそれをあなたの心にありありと描き出すことができ、それをあなたにとっての現実だと固く信じることができたら、あなたは人類の集合意識とは関係なく、その世界に住むようになります。
 
 そして、あなたのその思考の波動が、逆に人類の集合意識に流れ込み、それを変えるエネルギーの一部になるでしょう。

77 意識の中の旅人: <コンピュータにたとえれば、あなたは、人類の集合意識をあなたの心にダウンロードして見ているのです。>これはつまり、私達の魂が、何らかの使命を持ってこの地球に人間として生まれて来ようと決めた時点で、ダウンロードしたと言うことになりますね?また、ダウンロードするのをやめる時がすなわち、私達の肉体が所謂“死”と言うのを迎える時なのでしょう。そして今盛んに言われている“アセンション(次元上昇)”という現象を選択しない人達(魂)というのが、人類の集合意識をダウンロードすることをやめて、別の惑星に転生していく人達なのでしょうね?
 
 しかし、私を含めて大部分の人間が、「俺はこんな地球に生まれて来るなんて選択していないぞ!」と言うことでしょう、それは私達の本質(意識)が肉体を持った途端、表面意識(エゴ)と潜在意識とに分離してしまい、さらには表面意識だけを自分自身としか認識できなくなってしまう為に、肉体を持つ前に選択した事や決意した事の記憶を思い出せなくなっているのだと思います。
 
 私達の意識の本質(魂)は実は、潜在意識や、無意識と言った意識の深い所にあるものなのです。見張り人さんも言われている様に、私達人間が地球上に肉体を持っている間は、大部分の人達が“記憶喪失状態”で生活しています。そして私を含めてこの対話を読みに来てくれている人達は、自分が記憶喪失状態である事をうっすらとながら気付き初めて、思い出す為の努力をしているのだと思います。
 
 かつて記憶喪失状態からめでたく回復した人達がいます。それが歴史上でも有名な、釈迦やキリスト達です。
 
 そして重要なのは、私達も彼らと同じように記憶喪失から抜け出して霊性を回復する事が充分可能なのです。それを達成する為に私と見張り人さんはここで対話を続けています。意識の奥に置いてきてしまった記憶を徐々に思い出す為に。
 
 私達人間も彼らと同じ様に神の分身です。釈迦やキリストと本質的能力は変わりません。

78 夜明けの見張り人: <私達人間も彼らと同じ様に神の分身です。釈迦やキリストと本質的能力は変わりません。>
 そのとおりですね。むしろそれだけの能力があるからこそ、自分自身を完璧に忘れて物質人間になりきることができたのです。
 
 ただ、私と旅人さんと少しだけ、考えの違うところがあります。それは、私たちが人類の集合意識をダウンロードしたりやめたりするのはいつか、という点です。
 
 旅人さんは、私たちがこの世に生まれるときにダウンロードし、世を去るときにダウンロードをやめる、と考えておられるようですが、私は、生前死後の世界のかなりの部分が人類の集合意識の中に含まれていると思っています。つまり、人間は死んでも、そこで自動的に集合意識から離れるわけではない、と考えています。
 もし、私たちが死ねば自動的に集合意識の呪縛から逃れることができるのであれば、キリストも釈迦もこの世に降りてくる必要はなかったのではないでしょうか。私たちはみんな、いずれは死ぬからです。死ねば自動的に解放されるというのであれば、何もあわてて教えを説く必要もありません。私たちも、こんな対話はやめて、もっと楽しいことをして遊んだほうがいいのではないでしょうか。
 
 私たちは、死んでも、再び生まれても、集合意識の呪縛から逃れられない―――これをインドの古い哲学ではカルマと言いました。釈迦は、このカルマの無限循環から人間を解放するために、教えを説いたのです。キリストも、カルマとか輪廻といった言葉こそ使いませんでしたが、その教えは、結局のところ、人間をこの集合意識の呪縛から解放するための道だったのです。
 
 肉体の誕生も死も、霊性という立場から見れば、この世における「引越し」程度の出来事に過ぎません。集合意識におぼれきっている自分を救い出すことは、それとは別個のものとして考える必要があると思います。

79 意識の中の旅人: と言う事は、私達人間は肉体を失っても、自動的に人類の集合意識をアンロードして自然に神の分身で有る事を思い出す訳ではなく、多くの宗教が説いているように、「霊体と言う別の体に脱皮した。」と言う認識にとどまり続けるだけだと言うことですね。私が以前入っていた団体でもこのことを、「蛹が孵化して、蝶になるがごとし」と言っていましたね、そういえば。

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