対話2 意識の中の旅人との対話

4: 39−57


39 意識の中の旅人: ひとつ質問させてください。
 <もし、この(食べなければ死ぬと言う)観念を捨てることができたら、人間は何も食べなくても生き続けることができます>と見張り人さんは仰いました。
 
 わたしはまだ到底そこまで信じることはできません。
 
 そうすると見張り人さんがアリスと猫の対話の中でも述べていらしたとおり、「人は老いてやがては死ぬ存在だと言う概念を捨てる事ができたら不老不死になる」ということも同じ様に言える訳ですね。?

40 夜明けの見張り人: そのとおりです! もし人間が、「人間は誰でも老いて死ぬものである」という信念を捨てることができたら、人間は不老不死になります。「霊にとって」できないことは何もありません。なぜなら、霊というのは自分の思考・想念を体験するものであり、姿かたちのあるもので霊の想念でないものは何もないからです。
 
 あなたが見ているもの、体験するもの、・・・あらゆるものは、(霊である)あなた自身の想念なのです。ただ、私たちは、自分の想念が描き出すもののごく一部だけを「自分」であると考え、それ以外は「外界」であると考えます。それによって、私たちは「外界」と、その中にいる「自分」というものを体験しているのです。
 
 けれども、私がいまこのような話をしているからと言って、いま私(の肉体)が不老不死であったり、何も食べずに生きているというわけではありません。前回もお話したとおり、「ある想念を捨てればこうなる」ということを信じることと、その想念を実際に捨てることとは、まったく別のことだからです。
 けれども、捨てる前には、それを捨てることができるものであることを信じなければならないでしょう。それで、私は、このことを強調して言うのです。
 
 例外を設けずに、「あらゆるものは自分の想念である」ということを受け入れてください。それが、すべての出発点です。
 
 さて、OSを入れ替える話を続けます。
 前回、古い意識のOSを捨てる話をしましたが、ただ捨てようと思っても捨てることはできません。私たちの意識は、コンピュータのハードディスクのようなものです。あるファイルを削除したつもりになっていても、それは単にインデックス(目次)からのつながりがなくなっただけで、ファイルそのものは残っています。コンピュータのファイルは、インデックスから取り出せなくなれば、ふつうは存在しないのと同じことになりますが、意識の中に書き込まれたファイルは、自分ではなくなったつもりでいても、潜在意識の中から、目に見えない影響を及ぼします。意識の中のファイルを完全に消してしまうためには、そのファイルを上書きしてしまわなければならないのです。
 
 そのためには、新しいOSのコンポーネント(部品)を持ってくることが必要です。たとえば、「人間は何も食べなければ死んでしまう」という観念を消すためには、「人間は、空気から、あるいは光から、体に必要なあらゆるエネルギーを取り出すことができる」という観念によってそれを上書きします。あるいは「空気も光もなくても、プラーナと呼ばれる精妙な宇宙のエネルギーによって生きることができる」という観念で上書きします。そのようにして、観念を完全に入れ替えることができたときに、私たちはその観念を現実として体験するようになるのです。
 
 では、そのように観念を「上書きするにはどうしたらよいか」という質問が出るでしょう。最後に、そのことに触れておきます。
 
 コンピュータの場合と違って、誰かが新しいOSのCDをくれるわけではないし、ある一定の手順を踏めば、古いOSをアンインストールして、新しいOSをインストールできる、という具合にはいきません。その方法は、一人一人が自分で発見しなければならないのです。
 そのようになっている理由のひとつは、人間は一人一人みな違う存在だからです。すべての人が持っている意識のコンピュータはみな違っています。したがって、OSを入れ替える手順も同じにはならないのです。
 
 ただ、一般的に言えることは、まず第一に、「意識のOSというものは、入れ替えることができるものなのだ」ということを信じることが必要です。
 
 その次に必要なのは、何が古いOSか、ということについて、情報を集めることです。旅人さんは、「人間は何も食べないでも生きていけるようになる」ということについて、「とてもそこまでは信じられない」とおっしゃいました。ということは、旅人さんにとって、「人間は食べなければ死ぬ」という観念は、入れ替え可能なOSの一部だとは見なされていなかったということですね。そのように、人間は誰でも、「これから先には進めない」という限界を自分で作っています。その限界に気づき、それが実は自分自身で自分に課している限界であることに気づくことが、OS入れ替えの第一歩なのです。情報を集めていけば、「え、それも入れ替えられるの?」と驚くようなことがたくさん出てくるでしょう。それによって、私たちは、自分を縛っている観念の呪縛から解放されて行くのです。
 
 その次に必要なことは、新しいOSについての情報を集めることです。私はいま「食べ物を食べる代わりに、光からエネルギーをもらう」という観念を紹介しました。そのような新しい考え方にたくさん触れて、それに慣れることが必要です。それが当たり前のことに思えるようになったら、OS入れ替えの準備がだいぶん整ってきたといえるでしょう。
 
 その次には、自分が古いOSを捨てたとき、自分のまわりに何が起こるかということを想像して、自分がどこまでやるつもりがあるかをよく考えてください。
 たとえば、あなたが何も食べずに生きていくことができるようになったとします。まわりの人は、それをどのように受け入れるでしょうか。喜ぶでしょうか、尊敬するでしょうか、それとも、気味悪がるでしょうか。前回紹介した『リヴィング・オン・ライト』という本によれば、何も食べなくなると、友人との社交的な付き合いに支障を生じるそうです。確かに、人との付き合いには、お茶やコーヒーを飲んだり、お酒を飲んだり、食事を一緒にしたり、ということが多いですね。あなたが、何も飲み食いしないとなると、誰もあなたと付き合いたいと思わなくなるかも知れません。
 また、あなたが不老不死を獲得したとして、まわりの人が次第に死んでいくとしたら、あなたはそれに耐えられるでしょうか。友人も死に、配偶者も死に、子どもたちも年老いて死に、それでもあなたは生きつづける・・・まるで、神を呪ったために、死ぬことを許されなくなった伝説の「さまよえるオランダ人」のようですね。あなたにはその勇気がありますか。
 
 このように考えてみて、あなたが「ここまでやりたい」という決心が本当についたら、ゆっくりと取り組みを始めてください。その頃になれば、あなたの魂が直接あなたを導くようになっているでしょう。どのように取り組んでいけばよいか、自然に導かれるようになります。「弟子に用意ができたときに、師は自然に現れる」です。
 
 以上で、「霊性回復のためにするべきこと」を一応終わりにします。次は、旅人さんの瞑想の話をお聞きしましょう。

41 意識の中の旅人: 瞑想の話題に入る前にもうひとつ質問をさせてください。
 まず、私が霊性を回復した時どんな自分になりたいかをはっきりさせましょう。
 
 一言で言うと記憶喪失から回復することです。
 それは自分が肉体だけの存在ではなく、形を持たない意識体(霊的存在)で有ることをはっきりと思い出すことです。それによって我々霊的存在がなぜ肉体を持ってこの地上で
制限された生活を送っているか?と言った本当の理由もはっきりと思い出すと考えるからです。
 
 今の目標は取り敢えず上記の通りです。
 霊性を回復すれば自分の魂(守護霊・ハイヤーセルフと言っても良いでしょう)とも何も苦労することなくコミュニケーションが取れるようになっていると考えています。
 もしかしたら魂と一体になっていて、コミュニケーションの必要性すら無いかも知れませんね。
 
 その上で次の目標、(不老不死かも知れませんし、食べずに生きることかも知れません)を決めたいと思います。
 
 もしかしたら霊性を回復した状態で今までと同じような会社員を続けるかもしれません。
 なぜならば、見張り人さんが良く言われているように「劇場の上の役者の立場で」今の人生を思いっきり楽しめるような気がするからです。
 
 その為に今は日常の平凡な生活を送りながら思い出す為に暇を見つけては意識の内面に意識を集中しています。
  
 時が来れば夢からパッと覚めるような感じで、一気に思い出すと思うのですがどうでしょうか。

42 夜明けの見張り人 霊性を回復するということは、魂と一体になるということと同じことだと私は考えています。したがって、あらためてコミュニケーションするという必要もない、というのは、そのとおりだと思います。
 
 「一気に思い出すかどうか」ということについては、たぶん人によって違うと思います。
私は、どちらかといえば、私たちの意識が拡大するにつれて、少しずつ思い出して行く人のほうが多いのではないかと、考えています。
 なぜかというと、実を言えば、あらゆる情報、思い出すべき情報はすべて、私たちは持っているのだからです。ただそれを、自分で拒否して見ないようにしているだけなのです。したがって、私たちがその情報を受け入れても混乱しない、といえるような準備ができたものから、少しずつそれを見ることができるようになるのです。
 たとえば、霊の世界では過去も未来もないといわれます。そのことを頭で理解することはできたとしても、実際に、自分が過去にもおり、未来にもおり、また、何箇所にも同時に存在していて、いろいろな人生を送っているという情報をいきなり受け入れたら、たいていの人は混乱してパニックになってしまうのではないでしょうか。
 抽象的な情報を理解することと、具体的な情報を体験することの間には大きなギャップがあります。それを受け入れることができるようになるためには、ある程度の準備が必要であり、それは、その人がどれほど強い関心を持って霊性回復に取り組んだか、ということによって、変わってくると思います。

43 意識の中の旅人: そうすると、私がこれまでこの対話の中で“・・・に気付いた”と言ったことを幾つか述べてきましたが、それも思い出しているプロセスのひとつであった訳ですね?

44 夜明けの見張り人: もちろんそのとおりです。旅人さんはその名のとおり、すでに霊性回復への旅を始めておられます。それは、旅人さんが、霊性や意識の問題に関心を持ちはじめたときから、すでに始まっているのです。
 
 私たちがどこかへ旅をしようと考え始めたら、まず何をするでしょうか。私たちは、地図やガイドブックを取り寄せて、その旅がどんなものになりそうか、何を準備したらよいだろうか、と研究します。
 旅に出る決心がついたら、準備を始めます。ひょっとしたらもう二度と帰ってこられない旅かも知れないのです。友人にあからさまに言えば、反対する人もいるかも知れません。私たちはひそかに友人達に別れを告げます。
 
 数年前、私の昔の上司だった人が亡くなりました。その少し前、私がその人を訪問すると、その人は持っていた物理学の本を「君、これを読んだことはあるか」と言って貸してくれました。私は、その本を読んで返しました。すると、また、別の本を貸してくれました。その人は何も言いませんでしたが、私は「これは形見のつもりなんだ」と気づいたので、その本は返しませんでした。まもなく、その人は亡くなりました。いま私のてもとに相対性理論と量子力学の古い洋書が3冊ありますが、それはこのようにして残ったその人の形見です。
 
 霊性への旅を始めるとき、私たちはこのように友人や家族との間に、(目に見える形ではありませんが)精神的な別れを告げなければならないときがあります。
 それと同時に、人間ではなく、自分の心にあるさまざまな思考や感情と別れを告げなければならないのです。物質世界で生きるために必要だったさまざまな道具を、あとに残していかなければなりません。それをするのが、最初の「気づき」の段階です。「善悪や好き嫌いや損得による価値判断」を捨てるのもそのひとつです。
 これからも、旅人さんは、いろいろなものを捨てなければならないことに気づいていくでしょう。
 
 どうぞ、ゆっくりとあせらずに、しかし確信を持って、歩みを進めてください。

45 意識の中の旅人: わかりました。
 そうすると今私は、霊性への旅をゆっくりと歩き始めたところなんですね?
 霊や宇宙人といった見えない存在に幼い時から興味はありましたが、霊性回復を意識しだしたのは神道系の団体を退会しようと決心する少し前ですから。
 
 ただその時に気を付けなければならない事として見張り人さんも何度も言われていますが、「焦らないこと」、「驕り高ぶったりして道を外さないこと」ということですね?
 山登りでいえば、嵐が来ているのに無理して慌て下山しようとすれば、遭難するかも知れません。「そこの地域は危険だから今は行かない方がいいよ。」と人が忠告してくれているのに、「なぁーに、大丈夫。」と言って無理して出掛ければテロと遭遇して殺されてしまうかも知れません。
 
 要は、直感に耳をすませ、直感をコンパス代わりにしてゆっくりでも確実に進みなさいと言うことですね。そう言う私も、まだまだ直感のささやきを全部聞き取れる程の力は到底持ち合わせていませんが。
 
 <これからも、旅人さんは、いろいろなものを捨てなければならないことに気づいていくでしょう。>との事ですが、これを読まれている他の方の為に、一つはっきりさせておきたい事が有ります。
 それは、捨てると言う言葉を聞いて、霊性の道を歩む事が何か損する事かのように感じる人がいるのではないかと思うからです。
 
 しかし私も見張り人さんと同じように、霊性回復はとてもすばらしいことだと考えています。捨てると言う言葉を私なりの言葉に直して見ました。
 
 それは、『物質世界や物質世界での善悪などの概念が絶対でないことに気付く。』事だと言えます。そして自分が望むのなら霊性を回復した後で、『自分は肉体が全て自分だと考えていて、善悪のような概念に縛られて暮らしていたっけな』と懐かしく思い出すこともできると思っています。
 
 また実際に現在友達で有る人と、物理的に別れる日が来るかもわからないとも思っています。それは私の周囲にも、『人間は死ねば全て無くなってそれきりだ』と言う所謂唯物論者と言われる人達が依然多数存在しています。現在その人達とは普通に接していますが私がこれから霊性回復が進めば進むほど彼らから見て私は異様な存在に見えてくることでしょう。
 
 やがて彼らと私は別々の道を歩まなければならなくなると考えます。ただ私は、それらを失ってでも霊性回復の方がすばらしいと信じています。
 
 唯物論者が悪いと言っている訳ではありません。彼らはまだ物質世界を私よりも長く楽しんでいたいだけなのです。彼らも遅かれ早かれ自分が霊的な意識体で有る事に気付く時が訪れるでしょう。
 
 私からはこの話題に対しての問い掛けはこのくらいで終わりにしたいと思います。
 見張り人さんさえ良ければ以前から予告していた瞑想の話題に移ろうと思いますがどうでしょうか?

46 夜明けの見張り人: 「捨てる」という言葉について解説してくださってありがとうございます。旅人さんのおっしゃるとおりです。「気づいて、それに縛られなくなる」ということが、捨てるということです。
 
 <霊性を回復した後で、『自分は肉体が全て自分だと考えていて、善悪のような概念に縛られて暮らしていたっけな』と懐かしく思い出すこともできると思っています。>とおっしゃるのも、そのとおりです。
 それは高い山に登った人が、上のほうから自分の住んでいる町を見下ろしたときのような感じだと思います。町の中にいたときには大事なことだと思っていたことが、どうでも良いことのように思えてきます。
 宇宙から地球を見下ろした宇宙飛行士も、同じような感慨を抱きます。たとえば、ウォーリー・シラーという宇宙飛行士は、「宇宙から見ると国境なんてどこにもない。国境なんてものは、人間が政治的理由だけで勝手に作り出しただけの、もともと存在しないものなのだ」と言っています(立花隆、『宇宙からの帰還』、中公文庫)。
 私たちも霊性を回復したときには、私たちのとらわれていた善悪というものが、いかに小さなものであったかということがわかるでしょう。それは、小さい子どもが、大人の目から見たら大して価値のない「宝物」を取り合いしているようなものなのです。
 
 では、どうぞ、瞑想のほうに話を進めてください。

47 意識の中の旅人: 今回から瞑想の話をする予定でしたが暫くその話題はお預けしておいて別の話題に触れたいと思います。
 
 私は最近インターネットである占い師のサイトを見付けました。覗いている内に興味が沸いて来て、料金も手頃だったのであるテーマに付いてリーディングをお願いしました。
 そのテーマとは、『私にとって今世の一番の課題は霊性の道を歩むことなのか?』と言ったものです。リーディングの結果に付いては後ほど示しますが、リーディングの結果を頂いて読んでいるうちに大変な事に気が付きました。
 
 人間は元々霊的な存在です。この物理次元に降りて来たのは良いが、自分が元々霊的な存在で有ることを思い出せなくなって今現在苦労しているのです。
 
 霊性の道を歩むことは地球上の全ての人類にとって必要なことなのです。
 
 従って今回のリーディングのテーマとして正しくは、『私が霊性の道を歩むうえで、今世では何をする事が最も重要か?』とするべきだったのです。
 
 この事に付いてまず、見張り人さんの意見をお聞かせください。

48 夜明けの見張り人: 人間はすべて霊性への道を歩んでいるのだから、「私にとって今世の一番の課題は霊性の道を歩むことなのか?」という質問ではなく、「私が霊性の道を歩むうえで、今世では何をする事が最も重要か?」という質問をすべきだった、とおっしゃるのはまったくそのとおりだと思います。
 
 人はすべて、霊性への道を歩んでいます。霊性から離れる方向へ進んでいる人でさえも、霊性への道を歩んでいるのです。人が皆、北極を出発して、子午線に沿って南極にくだり、そしてまた北極に帰ってくるという長い旅をしていると考えてください。ある人はすでに南極を通り過ぎて北に向かっています。別の人はまだ南極に向かって進んでいます。けれども、その人も、同じ旅の途上にあるのです。
 北に向かっている人が、南に向かっている人よりも進んでいるかというと、そうでもありません。なぜなら、人は北極に帰ったあと、また南に向かって次の旅をはじめるからです。誰が先で誰があとかわかりません。
 人はすべて神から出て神に帰ります。人はすべて同じ旅の上にあります。けれども、すべての人は皆違う道をたどり、違う旅を体験します。もし、人がまったく同じ道を歩くのなら、人間は一人いれば十分です。みんなが違う道を歩むので、すべての人の存在価値があるのです。
 人はそのようにして、無限に旅を続けます。そして、旅の途中から、その状況を逐一、携帯電話で神に報告をしています。
 
 たとえて言えば、人間というのは、このような存在なのです。地球の上での転生の長い旅を終わらせることはできます。しばらくは、神の家に帰って、からだと心と魂を休めることを選ぶかもしれません。けれども、しばらくしたら、別の星、別の宇宙、別の世界で、また旅を始めることでしょう。なぜなら、それが私たち人間の本性だからです。旅人さんは「意識の中の旅人」というハンドルネームを選ばれましたが、実はそれはすべての人間の本性なのです。

49 意識の中の旅人: <人はすべて神から出て神に帰ります。>
 私もこれに対しては同意見です。しかし現在の人類は自分が神の一部で、神から出発したことも、目的地が再び神の元に帰って再び神と一体になることも、忘れているのではないでしょうか?
 
 コンパスも、携帯電話も無くして、「俺は一体今何をしているんだ!」と叫びながら冷たい氷の上をうろうろ歩いている状態だと言えます。
 
 で、私や見張り人さんは、うっすらとですが親が神であること又は、今歩いている理由を、思い出してきている状態なのでは無いでしょうか?
 
 理由も分からず、ただうろついているよりも、目的地や理由が分かってする旅の方がはるかに楽しいし、楽ですよね。

50 夜明けの見張り人: 「忘れている」のは事実です。そして、「忘れているんだよ」と言ってあげても、信じない人たちがたくさんいるのも事実です。
 
 けれども、それは「間違って」忘れているのではないのです。わざと忘れて、「果たして忘れたことを思い出せるかな」というゲームをしているのです。それは「地図もコンパスも持たずに山の中を歩きましょう」というゲームと同じです(たしか、そんな遊びがあったように思うのですが・・・)。
 
 私たちは、何とかそのことに気づいて、ホームキャンプに向かって歩き始めています。お互いに、自分の道をしっかり見つけて歩きましょう。
 
 まだ思い出さない人たちに、声をかけてあげるのは大切です。「おーい、こっちだよう」と声をかけてあげましょう。けれども、思い出さない人たちは、それでいいのです。その人たちには、その人たちの道と「タイミング」があります。「いつ思い出すか」ということも、その人たちの選択の範囲なのですから。

51 意識の中の旅人: 私もその通りだと思います。
 私の周りにも日常の些細な事で悩んでいる人や、まだ起きていない(起きるかも判らない)事で悩んだりしている人を多く見かけます。
 その人達が良い・悪いと言う訳ではなくて、その人達はその人達でこの3次元の現実の世界で『悩む・考える』と言う心の使い方を経験している最中だと、解釈することもできる訳ですよね?

52 夜明けの見張り人: そのとおりです。霊にとって失敗や間違いはありません。なぜなら、霊の存在目的はあらゆることを体験することなのですから、何を体験してもいいわけです。
 
 けれども、霊は自分が体験することに満足することもあれば、満足しないこともあります。満足しないと、失敗した、と思います。けれども、満足しないなら、満足するほうにむかって自分で動けばいいわけです。ただ、現在地球で遊んでいる霊たちの中には、そのことを忘れて、誰かが世界を変えてくれるのを待っていたり、自分がどうしていいかわからなくなっている霊がたくさんいるので、天使たちやそのほかの大勢の霊たちが、情報を提供してくれているわけです。ただ、そのような情報を信じるかどうか、受け入れるかどうかを含めて、最後のところは結局一人ひとりの霊たちが自分で選択していくほかに道はありません。

53 意識の中の旅人: <霊にとって失敗や間違いはありません。なぜなら、霊の存在目的はあらゆることを体験することなのですから、何を体験してもいいわけです。>
 少し前にした話の一部ぶり返しになりますが、そうすると、『高級霊・低級霊』と言われるものは無いわけですよね?
 
 私にとって、『良い結果をもたらす霊・良くない結果をもたらす霊』と言うものなら有ると考えています。
 
 他の宗教の批判をするつもりはありません。しかし、いとも簡単に『高級霊・低級霊』と言う言葉が使われているのにはさすがに疑問を感じます。
 
 なぜなら、何を基準にしてそう言っているかがはっきり見えてこないからです。

54 夜明けの見張り人: 『良い結果をもたらす霊・良くない結果をもたらす霊』という言葉のほうが好きだとおっしゃるなら、それをお使いになったらいいと思います。言葉にこだわるよりも、言葉の裏側にある本質を理解しておくことのほうが重要なのです。
 
 一つのたとえをお話しますので、『高級霊・低級霊』というものが、あると言うべきか、ないと言うべきか、ご自分で考えてみてください。
 
 ひとつの国があると考えてください。この国の人たちは、みんな途方もない金持ちです。日本円にしたら、百兆円くらいの預金をみんな持っています。だれでも、悠々と遊んで暮らせるはずなのです。
 けれども、そのお金の使い方は、みんな、まちまちです。ある人は、自分にそんな預金があるとは知らず、手元にある現金だけしかないものと思い込んでいて、毎日四苦八苦してやりくりしながら、窮屈な思いで暮らしています。なかには、隣の家に押し入って強盗を働こうかと企む人までいます。
 別の人は、自分に十分な預金があることを知っていて、その預金を自由に引き出して使うことができるので、決してお金に困ることはありません。強盗が入ってきても、お金ならいくらでもあげるよ、と言って、家の中にある現金を全部くれてやります。明日銀行に行けば、またいくらでも引き出してこれることを知っているからです。
 さて、この国には、金持ちとか貧乏人という違いは「ある」と言うべきなのでしょうか、それとも「ない」と言うべきなのでしょうか・・・霊についても同じです。

55 意識の中の旅人: <さて、この国には、金持ちとか貧乏人という違いは「ある」と言うべきなのでしょうか、>簡単に結論から述べてしまえば、金持ちとか貧乏人という違いはない、と言えます。ただ貧乏人と言われる人達は、自分が銀行にお金がたくさん有る事に気付いていないだけ、と言うことができます。
 
 そうして考えていきますと、低級霊と一般的に表現される存在は、自分が霊的存在または神の分身であることにまだ気付いていない霊、と言うこともできます。
 
 そこから導き出される結論は低級霊と言われる存在も本質的には神の分身であるわけで、一般的な宗教が言っているように一方的な悪者と考えるのは不適切と言えるでしょう。
 低級霊であってもいつかは自分が霊的存在だと気付く時が来るはずです。違った見方をすれば、まだ気付いていない自分を体験しているだけだとも言えます。
 ただその為に、肉体を持ってこの3次元に生きている人間に対して良くない影響をもたらす場合もあるわけです。その結果人間から良く思われない原因になっているのは事実です。
 なぜならば、肉体を持っている人間は、別次元の霊的存在を知覚できないので、危険を回避することができないからです。
 
 対話11でも述べましたが、良い・悪いというような絶対的なものはなく全てが相対的に存在するだけだと言いました。その事に常に気付いている事が重要になってくると改めて思います。
 
 見張り人さんは、どう思われますか。

56 夜明けの見張り人: 今回のお返事、私もまったくそのとおりだと思います。
 特に<低級霊と言われる存在も本質的には神の分身であるわけで、一般的な宗教が言っているように一方的な悪者と考えるのは不適切と言えるでしょう>という点は、とても重要です。
 いわゆる「低級霊」と呼ばれるのは、肉体を持たない「霊的な存在」ですが、私たちの身の回りには「悪人」と呼ばれる「肉体を持った低級霊」もいます。それについても同じことなのです。
 どんなに「悪い人」と見える人であっても、それは「神の分身」であり、内面に「神の火花」を持っている高貴な存在である、ということを、本当に信じられるかどうかということが、私たちにとって重要なのです。それは、私たち自身の「霊性への気づきの程度を表すバロメーター」のようなものです。
 
 ただし、旅人さんのお話の中で、一つだけ、異論があります。
 <肉体を持っている人間は、別次元の霊的存在を知覚できないので、危険を回避することができないからです>と言われるところですが、肉体をもっていようといまいと、もしその人が本当に自分の霊性を体現することができている人なら、低級霊は何の手出しもできません。その人の霊性の発現の度合いが高ければ、その人の「周波数」は低級霊の周波数とは格段に離れているので、それがバリヤーになって低級な霊はそれに近づくことができないのです。低級霊(肉体をもっていないものも、肉体を持っているものも)のわるさによって被害を受けるようなら、受けたほうの人も、低級霊と同じ程度にしか、霊性を発現できていないということになります。「金持ちの国」のたとえで言えば、その人たちは他人の家に泥棒に入ろうとは思わないけれども、やはり手元の現金だけが自分の財産だと思っている人、ということです。
 
 日本の禅宗の高僧に道元(どうげん)という人がいますが、この人に悪霊が祟りをしようと夜な夜な寺の周りに集まるのですが、道元の読経の声は聞こえるのに、道元の姿が見えず、どうしても道元に近づくことができなかった、という伝説が残っています。
 これは、ただの伝説かも知れませんが、霊的な世界(それは私たちの物質世界も含んでいます)の真実の姿を伝えています。
 
 <良い・悪いというような絶対的なものはなく、全てが相対的に存在するだけだと言いました。その事に常に気付いている事が重要になってくると改めて思います。見張り人さんは、どう思われますか。>
 まったくそのとおりです。単に相対的というだけでなく、見方によっていくらでも違った姿が見えるということです。ピラミッドは横から見れば三角形ですが、真上から見下ろせば正方形に見えます。本質を見れば金持ちであり、現象を見れば貧乏人である。それが今の私たちです。そして、私たちにとって重要なのは、本質を現象の世界に現すように努力することです。

57 意識の中の旅人: <そして、私たちにとって重要なのは、本質を現象の世界に現すように努力することです。>これに付いては私も全くその通りだと思います。そしてこの現実の世界で本質に気付く為に必要なもの、それが『感性を高める』ことだと最近気付きました。
 
 対話47でも述べましたが私は最近有る占い師に『私が今世で霊性を回復するにあたり一番しなければならないことは何か?』と言う課題に付いてリーディングしてもらいました。そこで出た結果を要約しますと「感性を磨け!」と言うものでした。正直言いまして最初は何のことだかピンと来ませんでした。しかし良く考えて見るとこれは大変重要なことを言っていたことに気付きました。重要なことだけれども当たり前過ぎて、つい見逃してしまうのです。それはこう言うことだったのです。
 
 対話33で私は朝起きたら周りの世界が明るく見えたという話をしました。その時私を含めて一般的な人は、何でだろう?どうしてこうなったんだろう?とまず最初に理屈を考えます。しかし重要なのはいつもより世界が明るく見えるということを素直に感じ取ることだったのです。そしてそれから湧き出る自然の感情(私はこの時さわやかで、嬉しい気持ちになりました)までも素直に感じ取る事が重要だったのです。理屈抜きで。
 
 対話34で見張り人さんは、私たちはこの現実世界で身に着けたたくさんの『常識』を持っています。そして霊性を回復する為には徐々にこの常識を捨てていく必要があると言っています。その常識のひとつにこの『理屈』すなわち知性があったのです。
 
 私達霊的存在は実は既に全てを知っています。殆ど何も知らないと言う事にしてこの3次元の世界を体験しているのです。したがって本当はそのことを『思い出す』だけで良いはずなのですよね。

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