対話2 意識の中の旅人との対話

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1意識の中の旅人: 「意識の中の旅人」を名乗っているものです。「夜明けの見張り人」さんのウェブページの内容をみたところ、内容が論理的で自分が今まで抱いていた疑問を少しずつ解決して行く手掛かりになるような気がしました。そこで、すこし質問をしたいと思います。
 
 私は、神秘体験を経験した事も幽霊を見た事もありませんが、幼年期の頃から霊的な事や宇宙人といったものに興味をもっていました。最近は、ある宗教団体で学んでいますが、指導者には「他の団体や書籍に脇目を振るな」と言われながら、承知の上でいろいろな本やウェブページを見ています。それは一つの疑問があるからなんです。
 
 その疑問とは、神や死後の世界といったもの一つとっても、どうして宗教によって感じ方・見え方が違うのかという事なんです。本来は真実は一つしかないはずなのに。
 
 で、見張り人さんのウェブページを読んでいて私なりの仮説を立てたんです。それは
 ★私達霊的存在が電波の様な波動的なエネルギー的な意識存在なら、それを受信した後解釈の仕方によって捉え方が違うのではないか、と。
  例えばコンピュータに例えるとJPEG形式で保存された画像ファイルが今ここにあるとします。で、そのファイルをJPEGを正しく復元できるソフトウェアで開けば正しく元の画像が見られますがBMP形式しか対応していないソフトウェアで強引にそのファイルを読み込んで表示しようとすれば、エラーになるか、全くデタラメな模様が出るかも知れませんね。
★それでこのJPEG形式に対応するソフトウェアが一つの宗教で、BMPしか対応しないソフトウェアが別の宗教だと仮定すれば、同じ一つのデータでも解釈の仕方によって全く違うものに感じられる。
★それが霊的世界にも同じ様に言えるのではないか、と。
 これについて、是非見張り人さんの意見を伺いたい思います。
 
2夜明けの見張り人: 「宗教によってなぜいろいろ説明が違うのか」というご質問ですが、その答えは、まったく旅人さんがお考えになったとおりです。ウェブとブラウザーのたとえは、私もよく使います。
 
 さらに、付け加えて言うと、「ほんとうの真理は言葉には表現できないものである」ということです。飾らずに言えば、すべての宗教の説明は(もちろん私の説明も含めて)すべて「嘘」なのです。けれども、この「嘘」は、どこかに正しい説明があって、それに対立するものとして「嘘」があるのではなく、言葉にできないものを言葉にするために、「嘘しかない」という状態になるのです。
 ひとつのたとえを申し上げます。旅人さんは、リンゴを食べたことがおありと思います。リンゴの味はよくご存知だと思いますが、では、リンゴを食べたことのない人にリンゴの味を説明してあげなさい、といわれたらどうしますか。リンゴは甘いといっても酸っぱいといっても、間違いではありませんが、砂糖と酢を混ぜてもリンゴの味になるわけではありません。リンゴの味は、リンゴを食べなければ決してわからないものではないでしょうか。
 神あるいは真理というものも、そのように、「体験しなければ決してわからない」、そして、「体験しても、それを言葉で説明することはできない」ものであることを覚えておいて下さい。
 
 第二に、いくら説明を聞いてそれを理解しても体験したことにはならない、ということも覚えてください。リンゴのたとえで言えば、どんなに上手にリンゴの味を説明してくれる人がいたとしても、説明を聞いただけでは、リンゴを食べたことにはならない、ということです。説明は、おいしくもないし、栄養にもなりません。
 宗教による神の説明も同じことです。どこかの宗教の説明を信じたとしても、それだけでは、何の役にも立ちません。神あるいは真理というものは、理解するのではなく、体験すべきものなのです。
 
 体験するためには、実践が必要です。私はこれを「山に登るためには、歩かなければならない」といいます。富士山に登る道はいろいろあります。静岡側から登る道も、山梨側から登る道もあります。けれども「どっちの道がいいかなあ」と比べているだけでは、決して頂上には行き着きません。ほかの道の情報を知るのはいくら知ってもかまいませんが、最後はどこかひとつに自分の道を決めて、それを歩き続けなければなりません。旅人さんの団体の指導者が「他の団体や書籍に脇目を振るな」とおっしゃるのは、そういう意味だと思います。
 どこから登った人も、ほんとうに頂上まで突き抜けたら、同じところに出てきます。重要なのは、どの道がよいか、ということではなく、どこまで深く突き進んだか、ということなのです。
 
3意識の中の旅人: 見張り人さんの返事を読んでいて、ある霊能力者に昨今言われた事が少しですがようやく理解出来た様な気がしました。
 
 言われた事とは、「人の書いた本や話を読んだり見たりして、そうかって、ただ言っているだけでは駄目だ。自分で勉強して、崩して、それを繰り返して、自分で悟れ、悟られよ」と言うものでした。
 漠然としていて今まで色々な解釈の仕方を考えていたのですが、一言で言うと「体験するようになるまで極めろ」という事だったのですね。
 私も宗教が万能だとは思いません。今でも中東では宗教的な思想の違いから根強い対立が続いているのを見れば明らかです。ただ現時点で科学的又は客観的に表現出来ない以上宗教をあくまで一つの『道具』として使うしかない、という事なのではないかと自分なりに考えてみました。
 
 そして、見張り人さんの書かれた本「魂のインターネット」を読んでいたときに、直感がひらめき、これまで所属していた団体から離れる決心をしました。その団体に入ったのは、「あなたは幽体が弱っているから、死んでから苦しい世界に行く。それを避けるためには修行しなければならない」といわれたからなのですが、そのような恐れにもとづいて修行するのも間違っているのではないかと思いました。
 孤独ではあるが、悟るには(霊的に目覚めるには)集団に頼るのではなく、個人個人が気付いて努力する以外には無いのではないか、と思ったのです。更に魂の修行とは山にこもったり特別な行法をやる事では無く、毎日の平凡な生活の中で行うものだという事をあらためて確信しました。
 このことについて、見張り人さんのお考えを聞きたいと思います。
 
4夜明けの見張り人: 今回のメールでは、大変重要なお話が書かれていました。私の意見をききたい、とおっしゃるので、お話したいと思います。
 今回の旅人さんの決心に賛成か反対かというだけなら、一行で終わりますが、「霊的成長への道をひとりで進もう」と決心された方に申し上げたいことはたくさんあります。とても一回のメールでは書ききれませんので、これから何回かにわたって、霊的な道を進むための心構えのようなものをお話したいと思います。
 
 まず、今回のご決心に対して、無条件に賛成いたします。もともと私は、誰に対しても、今進んでおられる道をやめなさい、とか、私の教える道のほうが正しいから、こちらに変えなさい、というようなことは言いません。けれども、ご自分で、今までの道を離れようという気になられたのであれば、むしろ積極的にそうしなさい、と後押しをします。
 それは、一人一人の歩む道はみんな違っており、それを知っているのは、その人の魂以外にはない、と信じるからです。誰も、他人に教えることはできないし、他人に教えてもらう必要もありません。他人にできることは、「自分の魂に聞きなさい」ということを教えることだけです。
 
 「信仰とは信じることではない。直感にしたがって歩むことである」と私は言います。これは「魂のインターネット」の中の「エデンの園の地下洞窟」という物語の中にも書きました。これを読まれたときに、直感がひらめいた、とおっしゃるのであれば、それを大事にしてください。直感とは魂の声なのです。
 ただし、人間は長い間、直感を無視してきたので、ほんとうの直感に対する感覚が弱くなっています。したがって、エゴからくる間違ったメッセージを魂からくる直感だと思ってしまうこともあります。けれども、これは練習をつむほかはありません。失敗を恐れていたら、いつまでたっても、直感に対する感覚は強くなりません。転ばずに歩けるようになった子供はいないのです。私達は霊的にはまだ子供です。転ぶことを恐れずに歩いてください。その代わり、絶えず直感に注意を向けてください。魂の声とエゴの声をどうやって聞き分けたらよいかを、「魂のインターネット」の「エゴの声と神の声」という章に書いておきましたから、参考にしてください。
 
 旅人さんの幽体が弱っているというのは、あるいは本当かも知れません。旅人さんだけでなく、現代人はみんな幽体が弱っているのです。なぜかというと、現代人は物質世界にしか関心がなく、自己中心的なエゴによって生きているからです。けれども、幽体のことは気にせず、霊的に自己を高めるようにしてください。霊的に自己を高めるとは、一言で言えば、「愛深い」人間になるということです。そうすれば、幽体は自然に強くなります。なぜなら、幽体は愛のエネルギーでできているからです。
 
 愛のエネルギーというのは、何か比喩的なものだと思われるかも知れませんが、それは現実の霊的なエネルギーです。もしこれが非常に強くなったら、物質の肉体さえも光を放つようになります。ひとの幽体を見ることのできる人が、そのような人の幽体を見たら、まぶしくて目が開けられないほどに、その幽体は輝いているはずです。そのような人を無理やり地獄に連れて行ったとしても、その人から出る輝きで地獄はたちまち天国に変わってしまいます。愛のエネルギーというのは、それほどに強烈なものなのです。
 
 このようなことを書いている私も、体が光るほどのエネルギーはもっていませんから、私の話を聞いても信じられない人がたくさんいると思います。けれども、霊的に成長するということは、どれだけ愛のエネルギーがその人の体と心に充満するか、という問題と同じ意味です。このことを覚えておいてください。これは、これから旅人さんが進まれる道を選ぶときの、ひとつの指針になると思います。
 
 また来週水曜日に、この続きを送ります。
 
5意識の中の旅人: 昨日『霊性の時代の夜明け』を読んでいた時不思議な体験をしました。例のごとく、どこの章かは忘れてしまいましたが『エゴや潜在意識等を統合せよ』といったくだりの所を読んでいたときだと思います。
 なんだか周囲の時間が凍り付いた様に止まってしまい、その中に本を読んでいる自分だけが動いている。更に心が透明になっていき、気分が凄く軽くなると言うか何とも言えない良い気持ちを体験しました。時間にしては1秒か2秒だと思いますが今でも鮮明に覚えています。
 
 それから、今まで所属していた団体では、潜在意識の中にある悪いカルマを浄化するという修行法をやっています。見張り人さんの本を読んでいてあらためて考えたのですが、過去世は魂が経験した事であって、悪いカルマ・良いカルマと分ける事など出来ないと思えてきたのです。そういった考えをする事こそが、逆に霊的進歩の妨げになるのでは、と。
 
 それでは、次のメールを楽しみにお待ちしています。
 
6夜明けの見張り人: きょうは、霊性を取り戻すとはどういうことか、という話をしたいと思います。それは、今日いただいたメールにも関係があります。
 
 まず、メールにお書きになった不思議な体験ですが、とてもよい体験をなさっていると思います。心が透明になるとか、世界が透明になる、と感じる「透明感」は、私たちが霊的に高い波動を受け取ったときの一つの典型的な感覚だと、私は考えています。
 霊的な世界には、隠し事がありません。秘密がありません。すべてが明らかであり、すべてが見えており、すべてが見られているのです。それを私たちは透明感として感じるのだと思います。
 そして、時間がとまり、なんともいえないよい気持ちがする、というのも、霊性を感じたときの特徴だと思います。静けさ、おだやかさ、やすらかさ、そして、ありとあらゆるものに対する深い愛情、そのようなものを感じたときには、その記憶を大事にしてください。
 おっしゃるとおり、実際には1秒か2秒の短い時間の体験ですが、その影響は深いところで、何十年にもわたって、あなたに贈り物を届けてくれます。その一つが、あるとき突然「わかる」という現象です。「よいカルマとか悪いカルマというようなものはないのではないか」というのも、そのような気づきの一つだと思います。
 
 お気づきになったとおり、「よいカルマとか悪いカルマ」というのはありません。すべては、魂が体験したことであり、魂はあらゆることを体験することによって成長するのであり、また、あらゆることを体験するのが、魂の存在目的であり、使命だからです。
 
 けれども、「よい、悪い」という言葉の意味をちょっと違う角度からとらえるなら、よいカルマ、悪いカルマがあるといっても、間違いではありません。
 よいカルマとは、現在および今後の自分にとって好ましい出来事をもたらすようなカルマであり、悪いカルマとは、現在および今後の自分にとっていやな出来事をもたらすようなカルマのことなのです。
 このような意味なら、よいカルマ、悪いカルマというものはあります。それは、道徳的な善悪の問題ではなく、単なる因果関係なのです。けれども、混乱しないためには、よい、悪い、といわずに「いやなカルマ」「好ましいカルマ」というべきでしょうね。
 
 いやなカルマが、悪いカルマ、あってはならないカルマだということではありません。それは、たとえば、病気の治療のために手術をすることを考えればわかるでしょう。手術は苦しいいやなことですが、それをすれば病気が治るわけですから「よいこと」です。同じように、「いやなカルマ」が「よいカルマ」であることはあります。むしろ、このような意味に考えるなら、いやなカルマも好ましいカルマもすべて「よいカルマ」だといえます。
 
 一つのたとえをお話します。
 私の友人が若いとき洋弓(アーチェリー)をやっていましたが、あるとき何気なく真上に向かって矢を射ました。どのくらい高く上がるか見たかったのです。それから、はたと気づいて、彼はあわてました。まっすぐ上に上がった矢は、今度はまっすぐ下に向かって落ちてくるはずです。しかも、地上に着く瞬間には、それは出て行ったときと同じ速さになっているはずです。彼は真っ青になって、その場から逃げ出しました。
 いやなカルマというのは、この矢のようなものです。どんな結果をもたらすかよく考えずに真上に向かって矢を射てしまったようなものです。上に向かって矢を射るのが「悪い」行いだというわけではありません。けれども、それは自分にとって不都合な行いです。そのままにしておけば、自分が怪我をします。落ちてくる矢を途中で取り除いてしまうか、自分が逃げ出すか、しなければなりません。
 
 霊的存在というのは、すべて自分自身の想念を現実世界として体験するようにできています。よく、天国も地獄も自分の心次第だ、という人がいますが、それは真実です。ただ、普通に理解されているよりは、はるかに深い意味で真実なのです。きょうは、この方向には深入りしませんが、自分の心を「清める」以外に、天国あるいは極楽に入る方法はありません。
 
 もう一つ、別のたとえをお話しておきます。人間は、お化けの絵を描いて、その絵を見て「こわいよう」と泣いている子供のようなものです。お化けの絵を描くのが悪いわけではありません。子供は、お化けの絵でも天使の絵でも、何でも描いていいのです。ただ、怖いのがいやなら、お化けを描くのをやめなさい・・・ これが、釈迦が教えたことであり、キリストが教えたことです。
 
 旅人さんが、あるとき、ある団体に入り、今度はそれから離れようとなさっているのは、その団体が悪いとか、その団体に入った事が間違っていた、というわけではありません。単に卒業する時期が来たということです。
 旅人さんが、もしその団体を非難したり、その団体に入っていた自分を責めたりする気持ちを持っておられるなら、それを捨ててください。しばらくの間、自分を導いてくれたことを感謝し、そして、いまはその先へと進む準備ができたのだということを心の中に固く宣言して、静かに離れてください。それは、小学校を卒業するような気持ちといったら、お分かりいただけるでしょうか。中学、高校と進んだ人間にとって、もう小学校には用はありません。けれども、それは小学校が無駄であるとか、間違っているということではないのです。
 
 人の人生に起こる事は、偶然もなく、無駄なこともありません。どんなにつらかったことでも、無意味に見えることでも、その人が旅を進めるために通らなければならなかった道なのです。
 よいカルマも悪いカルマもない、というのはそういう意味です。言い換えれば、すべてを受け入れなさい、という意味です。すべてを受け入れ、すべてを許し、すべてに感謝し、そして、すべてを自分で選んで、捨てるべき時が来たら感謝をもって捨て、とるべき時がきたら感謝をもってとる・・・それが霊性への旅の進め方です。
 
 人が霊性を回復するために通る道は、一人ひとりみんな違っています。それを、最後まで指導できる指導者あるいは団体というものは存在しません。どの団体に入った人も、いつかは卒業しなければなりません。その先は、自分の心の奥底にささやきかけてくる魂の導きを聞いて進まなければなりません。そのとき、メールにお書きになったような、すばらしい体験をなさることもあるでしょう。けれども、そのような体験ばかりをもとめるのではなく、静かに、落ち着いて、しかし断固として、自分の道を歩んでゆく・・・そういう勇士であってください。
 
 そのような勇士が道を進んで行くときに、決してしてはならないことがあります。来週はその話をすることにしましょう。
 
7意識の中の旅人: ひとつ質問があります。
<静かに、落ち着いて、しかし断固として、自分の道を歩んでゆく・・・そういう勇士であってください>という所で、私は『何か目に見える行動に移すという事ばかりではなく、俺は霊性を回復するぞという信念を持って、毎日の平凡な生活を地道に送りなさい』という意味だと勝手に解釈したのですが、どうでしょうか?
  
8夜明けの見張り人: まったくそのとおりです。目に見える行動は、あってもよし、なくてもよし、むしろ内面における強い決意と意思を持続させることが、もっとも重要だと、私は考えています。
 
 旅人さんは、いま、ご自分の判断で、正しい道を選択できるようになっておられます。それを維持することがもっとも重要であり、そのためには、目に見えるもので価値判断をせずに、内面の深いところから来る直感を大切にしてゆくことを習慣にしてください。
 
 今夜は、霊性の道を進む勇士が決してしてはならないことを三つお話します。
 
 まず第一は「自分と他人を比較すること」です。
 自分は、だれそれより上だとか下だとか、進んでいるとか遅れている、といった比較をするのでなく、ただひたすら自分を高める努力をしてください。それは、自分の心の中にあるものを探り、役目の終わったものを手放し、傷ついたところを癒し、霊性という高い目標に対して、心の全体を統一してゆく仕事です。それは他人と比較しても意味のないものです。他人と比較するのは、エゴの好きなことですが、そのようなエゴを真っ先に癒していかなければならないのかも知れませんね。
 
 第二は「自分自身以外のものに頼ること」です。
 それが、人であれ、本であれ、団体であれ、あるいは、座禅や瞑想といった特定の手段や特定の道具であれ、どんなものでも、それらを頼りにして、それらがあなたに霊性を与えてくれることはないのです。最終的に、あなたを導くものはあなた自身以外にはありません。それは、100パーセント自己責任の道です。
 これは、そのようなさまざまなものを学んではいけないという意味ではありません。学ぶのも、手放すのも、すべて自分の判断によって決めてください、ということです。初めは、その判断にエゴが介入して、誤った判断をします。誤ったと気づいたら、振り出しに戻って、やり直してください。そのうちに、正しい判断とはどういうものか、「匂い」でわかるようになります。常に、心のもっとも深いところから来る直感の声に注意を向けてください。恐れや不安や損得で道を選ぶのではなく、魂の喜ぶ声を感じながら道を選んでください。頭でなく、ハートで選んでください。そのうちに、正しいコースに乗っているかどうかに、体の細胞が反応するようになります。
 
 してはいけないことの最後は「自分自身を評価すること」です。
 自分は悟りを開いたかどうか、真理を得たかどうか、と自分で自分を評価しないようにしてください。霊性への道に終わりはありません。最終的なゴールにどれだけ近づいたかで判断しようとしたら、あなたには絶望しかありません。最終的なゴールは無限に遠いからです。
 けれども、あなたが道を進めば、自分も世界も変わってきます。何かの基準によって自分を評価するのでなく、自分がいま何に喜びを感じ、何に感動するか、を見つめてください。常に現在を感じ、現在に生き、現在に存在してください。あなたが体験できるものは、現在の瞬間だけです。それが、刻々と変わっていくのがわかるようになるでしょう。
 
 たとえを一つお話しておきます。
 霊性への道は山に登るようなものです。
 第一の戒めは、ほかの登山者と高さの比較をするな、ということです。あなたの道を歩く人は、あなた以外にはありません。みんなちがう道を登っているのです。比較には意味がありません。
 あなたがABCの順に上っていくところを、ほかの人はCABの順に上るかも知れないのです。あなたがCにいて、隣のひとがBにいたとしても、どちらが高いかわからないのです。他人と比較するのをやめて、ひたすら自分の道を歩くことに専念してください。
 第二の戒めは、地図やガイドブックに頼るな、ということです。地図やガイドブックをいくら眺めても、それを隅から隅まで覚えこんだとしても、それだけではあなたは一歩も山に登ってはいません。とにかく自分で歩く以外には登る方法はないのです。誰も同じ道を登る人はいないのですから、あなたが登る道のガイドブックを書ける人はいません。人が書いたガイドブックは、あくまで参考データです。自分の足元をしっかり見つめて、注意深く歩いてください。
 第三の戒めは、どれくらい登ったかな、と考えないことです。頂上は無限に高いのです。いくら登っても、頂上は見えてきません。けれども、登っていけば、空気が澄んで、風がさわやかになるのがわかります。周囲に美しい高山植物が姿を見せるようになります。絶えず今いる場所を楽しんでください。そして、絶えず登り続けてください。そのうちに、あなた自身の体が風のように透明になり、光のように輝くようになるでしょう。
 
 霊性回復の道を歩むための注意事項は、これでひとまず終わります。旅人さんの道が、楽しいものであるように祈っています。
 
9意識の中の旅人: 前回頂いた、霊性回復への旅を進む為の注意点について、質問があります。
 
 1番目と3番目については今までも自分なりに気を付けてやってきたのでこれからも持続させて行きたいと思います。で、2番目について質問が有るのですが、私が勝手にした解釈では『本や人の話を聞いたりして学ぶのは一向に構わないが、それはあくまで知識を広げる為で有って、それを鵜呑みにしてはならない。最終的には自分の魂に聞くべき(直感を大切にするべき)である。』と。
 
 また、最近体験した事を書きますので、これに付いても見張り人さんの意見を頂ければ、幸いです。
 
 私の今勤めている会社に下半身が不自由な障害者の人がいます。(障害者と言う言葉自体、私はあまり好きではありませんが、他に良い言葉が見当たりませんのでこれを使う事にします。)
 で、仕事は座ったまま出来るようなことをしてもらっているのですが、その人は協調性に欠ける事が少しあるのです。
 今までの私なら、困ったなぁーーーってあれこれ考えるところですが、昨日ふと用事で電車に乗っている時、直感みたいなものを感じたのです。それは、「その人がどういった性格であれ、必要だから生まれて来て私の会社の私の部門に存在している。きっと、そういった人と旨く付き合っていく事を、私を含め部門のメンバーが学んでいるのではないか」と。いわゆる善悪と言う固定観念を持たない見方をして見ると、なんだか心が透明になった様で軽くなりました。勿論その人に対しては、継続して心のケアをしてあげなくてはならないのは言うまでも有りません。
  
 で、霊性を回復するとは 黒い・白い、悪い・良い、といった固定観念を徐々に捨てて行く事なのかなと、思いました。
 見張り人さんは、どう思われますか。?
 
10夜明けの見張り人: 二つの質問がありましたので、お答えします。
 
 第一の質問は、『本や人の話を聞いたりして学ぶのは一向に構わないが、それはあくまで知識を広げる為で有って、それを鵜呑みにしてはならない。最終的には自分の魂に聞くべき(直感を大切にするべき)である』と解釈した、ということですが、まったくそのとおりです。
 とくに注意していただきたいのは、「誰か偉い人が言ったのだから、正しいに違いない」という判断をすることです。誰が言ったか、とか、何に書いてあったか、と言うことでなく、必ずその話の内容をよく理解し、吟味して、内容によって取捨選択の判断をしてください。その際に、できるだけ心を透明にし、エゴの恐れや欲が混じらないように、魂の声に聞くつもりで判断してください。
 
 第二の質問は、『霊性を回復するとは 黒い・白い、悪い・良い と言った固定観念を徐々に捨てて行く事なのかなと、思いました』ということですが、これもまったくそのとおりです。
 私達は善悪、正邪等の価値判断を、「観念によって」行なっています。けれども、これを「魂に聞いて」行うようにすれば、私達は違った行動を取るようになります。固定観念は全部捨ててください。そして、毎回毎回、まったく白紙の状態で、魂に聞くつもりになってください。
 
11意識の中の旅人: 私は現在は暇を見ては見張り人さんから頂いた「猫とアリスの対話」の本を読んでいます。まだ3分の1をやっと読み終わった所ですが、この本は頭で論理的に考えながら読むと余計解らなくなるのでフィーリングで読む事にしています。
 
 さて、この10日程で現在の私にとって貴重な体験をしました。
 前回のメールで、「霊性を回復するとは、黒い・白い、良い・悪い、といった2極性の固定観念を段々取り除いていくことだ」と私が言ったのを覚えていらっしゃいますでしょうか?
 で、最近夜寝る前に布団の上で瞑想をしているとそのまま寝てしまうのですが、その晩決まって、自分の中に有ると思われる、マイナスの固定観念を強調した夢を見るのです。しかもその夢は、何日経っても鮮明に表面意識に残っているのです。
 
 つい最近見た夢は、親に勘当されて家を飛び出し、自分の勤めている会社が倒産して、路頭に迷うと言うものでした。
 両方とも私の現在の状況から言うとまず起こりそうも無いことです。今までの私であれば、「嫌な夢を見ちまったな」で終わるところですが、冷静に上記の夢を分析すると(勿論目を覚ましてからの話です)次の事が解りました。
 
 肉体を持って意識を表現している人間にとって
  1.仕事を失い、飯を食えなくなること
  2.生活の根本基盤である、家・肉親を失うこと
上記の2点が(これだけでは無いですが)恐怖の観念として無意識のうちに日常の生活を支配しているという事に気付いたんです。従って、こういったマイナス観念を、意識して癒してあげることにより、以前感じた『意識が透明になる感じ』に自分の意識を持っていけることに気付いたのです。見張り人さんはこういった経験はお持ちでしょうか?
 最近は、日常生活の最中に、この様な意識を持続できるようにならないかと自分自身で試行錯誤しています。いずれは仕事中など、緊張状態でもこう言った意識を保てれば、理想なのかも知れませんね。
 
 私なりに考えた、マイナスの観念の癒し方ですが
 1.椅子に座り、2,3回深呼吸して身体をリラックスさせます
 2.銀河系の写真を目の高さに置きます
  (私はパソコンの壁紙に、インターネットから拾って来た銀河系の画像を貼り付ける
  事によって、代用しています。)
 3.銀河系の写真に目をやり、自分が銀河系の意識そのものである事をイメージします
 4.マイナスの観念を頭に浮かべ、「長い間有難う。さようなら」と言いながら、銀河
   系の周りに、マイナスの観念が戻っていくことをイメージします
 5.マイナスの観念が更に、渦を巻いて銀河系の中心に達し、銀河系と一体になったと
   ころをイメージします。
 6.一回深呼吸した後、意識を身体に戻します。
 こうする事によって、一定の時間(10分〜30分程度)心が透明になった感じを持続出来るようです。さらに、何回も回数を重ねる事によって、マイナスの観念が自分から幾らか消えていくようです。
 
 見張り人さんは、どう思われますか。?
 
12夜明けの見張り人: すばらしいメールをありがとうございました。
 
 マイナスの観念を癒す方法、これを自分ひとりで思いつかれたのだとしたら、すばらしいと思います。旅人さんは間違いなく、魂(ハイヤーセルフといっても守護霊といってもかまいませんが)の導きの波動を受け止めておられると思います。
 
 銀河系に返すというのは、よい方法ですね。私も同じようなやり方をします。
 一つの方法は、マイナスの観念に感謝して、それからそれをきれいなプレゼントの箱に入れ、リボンをかけて、ピンクの風船を結び付けます。そして、それが高く高く上って神のもとへ帰っていくのをイメージします。
 時には、テーマを決めて、それに関するマイナスの観念を体中から呼び集めます。それは小さな子供達の姿をして集まってきます。そこで、みんなに、今までよく働いてくれてありがとうとお礼を言い、神様に新しい働き場所をもらうんですよと言い聞かせて、神の国から迎えに来たマイクロバスに乗せます。そして、幼稚園に行く子供を見送るお母さんのように、ありがとう、さようなら、と心の中で呼びかけながら、マイクロバスが遠ざかっていくのを見送ります。
 
 人によって、いろいろな方法があると思います。旅人さんが気づかれたように、私たちは、たくさんのマイナスの観念を持っており、その上に、私達の世界観を作り上げ、それに基づいて理性の判断や感情の反応を起こしています。土台にあるマイナスの観念に気づいて、それを解消することができれば、私たちはすばらしい世界を体験できるようになります。逆に、それができなければ、いつまでたっても、私達は昔のままの世界を体験し続けるでしょう。
 
13意識の中の旅人: こんにちは。今日は何となく直感の様なものが働いたのか、見張り人さんに、メールを書きたい衝動に駆られたので、素直に書いて見ることにします。
 
 その前に、今回は私から2つ、質問をさせて頂きます。
 まず一つ目は、直感に素直になっていれば、今この瞬間に必要なものは自然と得られると言うのを何処かで聞いた事がありますが、今から話すような事は、そういう事なのでしょうか?
 二つめは、自分の心の持ち方を変える事で、現実の世界が変わって見える、というのは、本当なんだな、って思ったことです。
 
 では、まず一つ目からお話します。
 
 前回のメールでマイナスの観念の癒し方に付いて、お話しましたが、これは、自分独りで思い付いたと言えばそうですが、正確には、見張り人さんの本や、その他の本を読んでいる中で自然と思い付いたと言うのが正確でしょう。現在私は、見張り人さんから頂いた本以外に、次の本を読んでいます。
 ・宇宙人、内なる訪問者
 ・宇宙人遭遇への扉、プレアデスからのメッセージ
 ・神との対話
 ・「超無限創造神」★★★ 青陽真司(オフィスS&S)
 最初の2冊は既に読み終わりました。勿論これらは既に絶版の書籍なのでインターネットで、古本を手に入れました。『神との対話』は、昨日から読み始めたばかりで、まだ数ページしか読んでいません。ただ、書いてある内容は「ふんふん、」と自然に頭に入っていく様な感じがします。
 
 で、本題に戻りますが、今まで宇宙人関係の本と言うと、矢追純一氏を代表とする様な、所謂、ネガティブ思考の本しか自然と目に入りませんでした。で、今年に入ってある宗教団体を知り、半年で卒業しましたが、それから見張り人さんのサイトと知り合い・・・と言う具合に、私の成長に合わせて、必要なものが苦労することなく、目の前に現れている。この事を改めて思い返すと、不思議な気分になります。
 
 それから2つめですが、今まで会社等で嫌な奴と思って仕事以外では避けていた様な人達でも、こちらが中立な気持ちで接する事によって、普通のなんでもない人だったりするのです。
 
 私が最近考えた人間の意識のイメージとはこういう感じかなと思っています。これに付いて3つ目の質問としますので、見張り人さんなりの見解をお聞かせください。
 
1. ビーカーに蒸留水が入っているとします
  これがすなわち『神』、宇宙意識と仮定します
2.そのビーカーの傍に角砂糖が幾つか置かれています
  これが神から分離した人間の意識、『私たちが今地球世界を体験している現実の意識』
  とします。
3.その角砂糖をビーカーに入れてかき混ぜます。すると水に溶けて、見た目は透明そのものに見えます。
  この状態が、現在の私達が今宇宙に存在している状態では無いのかと。
 
 つまり、自分の魂も、他人の魂も、線を引いて区別できないのでは。
 そう考えると、自然と気持ちが安らかになるので、エゴからの直感ではなく、ひょっとして、真意を付いているのかも、と、最近は思うようになって来ました。さらに、こう言った気持ちを前提にして毎日の生活を送っていると、自然と物事がスムースに進むようなんです。
 実を言うと、気が付いたのは以前のメールを差し上げてから後のことですが。
 今回は長くなりましたので、この辺で終わりにします。
 
14夜明けの見張り人: メールありがとうございました。
 三つのご質問を中心に、私の考えをお話したいと思います。
 
 第一の質問、「直感に素直になっていれば、今この瞬間に必要なものは自然と得られると言うのを何処かで聞いた事が有りますが・・・」と言うことですが、それは本当です。西洋にも、「弟子に準備ができたとき、師は自然に現れる」ということわざがあります。それは、外界というものが私達の内面の心が表れているものですから、必然的にそうなるのだと思います。
 「でも、そうならないときもある・・・」と普通の人は思いがちですが、そうならないときというのは、実は、心の中が乱れていて、「右に行きたい」という思いと「左に行きたい」という思いが共存しているような状態になっているのです。両方の思いが拮抗していれば、何も起こりません。片方が強ければ、そちらが起こります。ふつう、意識に上っているのは片方だけであって、他方は潜在意識の中に隠されていますから、左に行きたいと思っているのに、潜在意識の中の思いの影響で、なかなかそうならなかったり、右に行ってしまうということが起こるのです。
 「直感に素直になっていれば・・」というのは、この内面のすべての思いに気づくことであり、分裂した思いを整理して、必要な思いだけにそろえていく、ということです。自分の意識の内面を自由にコントロールすることができるようになれば、人間は誰でも「あなたには、何もできないことはない」(キリストの言葉)という状態になります。
 
 2番目のご質問、「心の持ち方で現実が変わる」というのも、上に述べたことでお分かりだと思います。整理すれば、
  (1) 外界はすべて自分の心を映し出した映画のようなものである。
  (2) 私たちの心には、たくさんの矛盾した思いがある。
  (3) 私たちは、自分の心の中の「すべての」思いに気づいていない。
 これによって、私たちは、自分の意に反する世界を体験する結果になります。したがって、そのような世界体験から抜け出すためになすべきことは、
  (4) 自分の心のすべての思い(感情や信念や記憶や、その他もろもろのすべて)に気づくこと。
  (5) 不必要な思い(自分にとって不都合な結果を外界に生み出すような思い)をすべて消去すること。
  (6) 自分にとってよい結果を生み出すような思いを積極的に心の中に作り出すこと。
ということになります。
 
 三つ目のご質問、「人間は蒸留水(神)の中に溶け込んだ角砂糖のようなものであって、自分と他人の間に境界線を引くことはできない」というのも、まったくそのとおりです。この「自分」と「他人」、「自分」と「世界」という区分(分離)の意識を乗り越えることが、霊性への道の最大のハードルだといってもいいくらいだと、私は思っています。
 「自分」と「他人」は、分けられないだけではありません。実は、他人というものは存在しないのです。私達の意識の中に、「他人」という言葉がある間は、私たちはこの問題をクリアしていない、と私は思います。「他人」は存在しません。「外界」も「自然」も存在しません。存在するものは「自分」だけなのです。イラクに戦争を仕掛けるブッシュ大統領も、爆弾テロで自爆する人たちも、先日日本全国に大損害を残した台風も、落ちたリンゴも、それを前にして嘆いている農家の人たちも、・・・あらゆるものが、「自分」なのです。この一見めちゃくちゃな言葉の意味が本当に理解できたとき、本当の意味で私達の霊性への道が始まるのです。
 
15意識の中の旅人: 今日はテレビのニュースを観ていて、少し嬉しい気持ちになりました。夕方のテレビのニュースで米国のパウエル国務長官が「イラクに大量破壊兵器が存在したと言う認識は、間違っていた」と、はっきり証言していました。確かにそれが元で1年半も戦闘状態が続き、沢山の民間人が死亡しました。普通に考えれば今更そんな事言ってどうするんだ!と言う、怒りの声が聞こえて来そうです。
 しかし、それよりも僕が嬉しいと感じたのは、今までだったら、間違っていた事は公表せずウヤムヤにして闇から闇へと葬り去っていたでしょう。それが、国務長官と言う要職にある人が、はっきりと間違いをカメラの前で認めたのです。これは人類の集合意識が、段々と霊性を回復する過程にあって、意識が個人のエゴ中心主義から、集合意識への統合へと向かって行っている現れではないかと思ったのです。
 
 どうでしょうか。?
 
16夜明けの見張り人: 人類の集合意識が変化しているのは確かだと思います。その変化が目立つようになってきたのは、第二次大戦が終わったときからだと、私は考えています。そのとき、初めて、「戦争そのもの」を悪だと考える思想が現れた、と思います。その後もまだ、現在まで、「正義の戦争」という言葉は生き続けていますが、それでも、その言葉の矛盾に気づく人は増えていると思います。
 
 隠し事ができない世界に変わってきているということもいえると思います。日本で、政治家や企業社会における隠された悪事、たとえば贈収賄、病院や警察の不祥事、企業のリコール隠しや安全点検の手抜きの露見など、従来なら、旅人さんがおっしゃるように、闇から闇に葬り去られた出来事が表に出てくるようになっています。世界中でこの傾向は目立って来ていると思います。世界の中で、多くの国が賄賂なしではまともに商売ができない、というのは、一昔前まで、その方面の人たちには常識のようになっていましたが、今では、そういった国々の政府が、悪習慣を断ち切るためにさまざまな動きを見せるようになってきています。
 アメリカの国務長官の発言もそのような流れの中に起こった一つの顕著な出来事だと思います。私もうれしい気持ちでこのニュースを聞きました。
 
 けれども、旅人さんには、せっかくそこまで気づかれたのであれば、もっと深いところまで目を向けていただきたいと思います。
 
 旅人さんは、善も悪もない、ということに気づいておられます。けれども、国務長官の正直な発言を歓迎する裏には、戦争をやめようとしない大統領や、それに対抗するテログループの人たちは「悪である」と考える気持ちが残っていないでしょうか。
 
 誤解しないでいただきたいのですが、それを「悪である」と考えることをやめなさい、と言っているのではありません。けれども、もし「悪である」と考えておられるなら、そのことに「気づいて」いてほしいのです。「気づいている」というのと「気づいていない」というのが、大きな違いなのです。そして、そのことと、「善も悪もない」ということがどう結びつくのかを、考えてほしいのです。
 
 「善も悪もない」ということを理解するためのたとえ話を一つ申し上げます。
 世界で起こっていることをすべて「ドラマ」あるいは「映画」であるという視点で眺めてみてください。最近起こった事件を例に取りましょう。オセチアでしたか、旧ソ連の一地域で起こった学校占拠事件、1000人が人質になり、多くの子供を含む350人が死亡するという悲惨な事件になりました。殺された人々はかわいそうであり、このような事件を起こした犯人達は許すことのできない悪人達だというのが、一般の反応であろうと思います。
 そのような反応が間違っているわけではありませんが、それはいわば「ドラマ」と同じレベルの反応なのです。もし、この事件をドラマだと考えたらどうなるでしょうか。ドラマには作者がいます。もしこんなドラマを書いた人がいたら、人はまず、「この作者は何のためにこんな悲劇的なドラマを書いたのだろうか」と思うのではないでしょうか。ただ、人を驚かせ、興奮させて、お金を稼ぎたいだけだったのでしょうか。それとも、人間性の中に潜む何かをえぐり出して見せようとしたのでしょうか。
 この三次元世界で起こっていることは、すべてドラマです。そして旅人さんが見ているドラマはすべて、そのドラマの「作者」が、旅人さんに見せようと意図して作り出しているものなのです。
 そのドラマの作者とはいったい誰なのでしょうか。その作者は、何のために旅人さんにそのドラマを見せようとしているのでしょうか。
 
 きょうは、答は書きません。しばらく、そのことを考えてみてください。ご質問なり、ご意見なりがあったら、またメールをください。
 
17意識の中の旅人: <旅人さんは、善も悪もない、ということに気づいておられます。けれども、国務長官の正直な発言を歓迎する裏には、戦争をやめようとしない大統領や、それに対抗するテログループの人たちは「悪である」と考える気持ちが残っていないでしょうか。>
 はい、確かに悪であると考えている気持ちが残っていると言えばその通りですが、違うとも言えます。それは、悪と言うものに対する考えから来ています。前回の対話で私は、「霊性を回復するとは、黒い・白い、悪い・良いと言う、固定観念をだんだん捨てて行くことだ」と言いました。そして、見張り人さんもそれに同意してくださいました。
 ですから今回のことで言えば、イラクに爆撃した大統領の行為を『悪い』と捕らえるのではなく、『地球人類にとって良く無い行為』と表現したいと思います。
 何か、言葉のマジックの様な気もするのですが、悪いと言う言葉からは私にとって一方的に決めつける様な概念を連想させます。それに対して『良く無い行為』と言う言葉にはまだ幾らか、読み手に選択の余地を与えているような軟らかい表現を感じさせます。また更に、後の言葉の方が私の内面の心をより正確に表現しているような気がしました。
 
 そこで以後の対話では積極的に悪の事を、『良く無い行為』、『マイナスの概念』と言う言葉に置き換えて使用したいと思います。これに付いては見張り人様の意見も是非お聞かせください。
 
<誤解しないでいただきたいのですが、それを「悪である」と考えることをやめなさい、と言っているのではありません。けれども、もし「悪である」と考えておられるなら、そのことに「気づいて」いてほしいのです。「気づいている」というのと「気づいていない」というのが、大きな違いなのです。そして、そのことと、「善も悪もない」ということがどう結びつくのかを、考えてほしいのです。>
 上の説明を読んでいただければ、答えは「気付いている」と言えるのではないでしょうか。また、「善も悪も無い」とどう結びつくのかと言う部分の回答ですが、上の文章で既に答えが出ている様な気がしますが、簡単に整理しますと『善・悪と両極端に分離して考えるのではなく、ブッシュ大統領の行為を良く無い行為と言う、一つの要素として客観的に捉えることが必要ではないか』と言うことです。
 
 <そのドラマの作者とはいったい誰なのでしょうか。その作者は、何のために旅人さんにそのドラマを見せようとしているのでしょうか。>
 ドラマの作者とは、自分の魂=ハイヤーセルフ=大いなる全て=神と、色々宗教によって言われ方こそ違いますが、私は『宇宙そのもの』と言う言葉が好きで良く使います。
 ですから私は今1個の個我をもって旅人と言う人生を経験していますが、私の魂自体はもっと大きな、無限な、宇宙そのものではないかと直感的に考えています。
 なぜ、ドラマを私に見せようとしているのかですが、これは私の本来の魂の部分(無意識の部分とでも言いましょうか)が旅人と言う人生の台本を自分で書いて、それを実際に経験しているだけなのではないか。と、思うのです。
 
 私が以前入っていた団体では、人間として肉体を持ってこの3次元に生まれて来たのは、悪いカルマを清算する為だ。と、教えています。これもある意味では正しいのですが、現在の私なら以下の様に言うでしょう。
 
 良いカルマ・悪いカルマなどと言う区別は無い。カルマとは単に長い転生の間に魂が経験した記憶(情報)に過ぎないからである。魂(宇宙)とは、それらの経験を重ねる事によって得た情報を蓄積していく事によって無限に成長・進化していくものである。
 ただ、折角3次元の肉体を持って今存在しているので有るから、その間の人生を楽しく生きる為には、良い・悪いと言った、固定観念をなるべく捨てて、宇宙のありのままに生きなさい。そうすれば、何も苦労することは無いよ、と。
 どうでしょうか? 見張り人さんから見た上記の感想を是非お聞かせください。
 
 私自身も実際、常に上記の事を念頭において、日々の人生を送る様、心がけています。大切なのは、固定観念と言うフィルターをなるべく通さないように、常に自分の意識に注意を向けておくことだと思っています。
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