霊性の時代

A14 アロハ・オエ


親戚の若い男の子が12月30日にハワイで結婚式を挙げるというので、今年(2005年)の新年は思いがけなくハワイで迎えることになりました。東京はこの冬一番の冷え込みという12月29日、雪のちらつく中を寒さに震えながら成田に向かったのですが、ハワイに着いてみれば、最低気温が20度という暖かさ、日本の気候では6月ごろのちょっと曇った梅雨の合間のような感じでした。この時期、ハワイは雨期ということで、カラッと晴れた日は一日しかありませんでしたが、浜辺には派手な色の南国の花が咲き乱れ、大勢の人たちがサーフィンを楽しんでいました。ひょっとしたら海に面したホテルの窓からホエール・ウォッチングができるかも知れないという話もあったのですが、けっきょく鯨は来ませんでした。結婚式のあと、2日ほどのんびりして、1月2日にハワイをたち、日付変更線を越えて3日の午後、成田に帰ってきました。
 
ハワイは美しく穏やかなところです。すべてが波のうねりのようにゆったりと流れていきます。この素晴らしい場所で、親族の結婚式という喜びの式典に参加して・・・・ほんとうなら、私も心が喜びに満たされてすごしても不思議ではなかったはずです。けれども、ハワイに滞在している間、私の心は悲しみに閉ざされたままでした。私の心は、この地上の楽園と見える風景の裏に隠された人類の歴史の負の側面に焦点が合ったままだったのです。
 
最初のきっかけは、成田空港での身体検査に始まりました。ご承知のように、いま世界中がテロにおびえ、密輸におびえて、ほとんどパニックに近い状態になっています。金属探知機のゲートをくぐるときも、上着を脱ぎ、靴を脱ぎ、腕時計をはずし、コインの入った財布を手放し、ベルトのバックルが反応するからとズボンのベルトまではずさなければなりませんでした。預けたトランクはX線検査を受けるわけですが、もし怪しいと思われた時は、トランクを開けるので、鍵はかけないでください、という注意がありました。海外旅行に出かけたのは十数年ぶりですが、以前はトランクには鍵をかけて預けるのが常識だったと思うのですが、いまは鍵をかけておくと、検査のためにトランクを壊されることもあるそうです。ホノルルの入国審査では、指紋と写真を取られました。ホノルルからマウイ島へ飛ぶ国内線の入り口でも、また成田と同じような身体検査や荷物の検査が行われました。抜き取り検査で適当に選んでいるのだと思いますが、一緒に行った息子のトランクが開けられて麻薬の検査が行われました。これらの検査は、旅なれた人にとってはあまりたいしたことではないでしょうし、海外旅行はめったにしない私のような人間にとっても、実質的にはそれほど負担が大きいわけではありません。多少待ち時間が長くなる程度で、検査官はどこでも丁重でしたし、悪い印象はありませんでした。けれども、私は悲しくてならなかったのです。人間はどうしてこんなにお互いを信じられなくなってしまったのでしょうか。
 
結婚式は教会で行われました。ひろい芝生の敷地の中央に白い素敵な教会が建っていました。出席者は両家の親族合わせて20人ほど。神父さんが、日本語と英語とハワイ語をちゃんぽんにして式を進めていきました。日本の教会で結婚式をすればオルガンで賛美歌が演奏されますが、ここハワイでは、大きな男性の歌手がギターを抱えて現れ、教会での賛美歌から、式のあとのパーティの席まで、一人で歌を歌ってくれました(ほんとうの教会員の結婚式ではオルガンが演奏されるのかも知れませんが)。このごろハワイで結婚式を挙げる日本人がとても多いそうです。この歌手は日本語の歌もよく勉強していて、加山雄三の「君といつまでも」や坂本九の「上を向いて歩こう」、小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」など5〜6曲を、日本語で上手に歌ってくれました。

パーティの半ばごろ、この歌手が突然アロハ・オエを歌い始めました。結婚式に別れの歌を歌うのかな、と思って聞いていたら、それは歌手の別れの挨拶だったのです。花婿の父親がチップを弾んであげると、彼は喜んで、「アローハ、サヨナラ」と言いながら帰っていきました。ここでまた、私の心はアロハ・オエに捕らえられました。このゆったりとしたやさしい旋律、母音の多いハワイ語の柔らかな響きの別れの歌は、ハワイの最後の女王リリウオカラニによって作られたといわれています。最後の女王ということは、そのとき、ハワイの王朝が終わったこと、ハワイが独立国でなくなったことを意味しています。リリウオカラニは、1891年に即位しましたが、その統治方針が白人たちに受け入れられず、1893年に白人たちのクーデターによって王位を追われ、95年には逆に、白人たちの作った暫定政府への反逆に加担したとして捕らえられてしまいます。そして、その3年後、1898年に、ハワイは米国に併合されました。(「地球の歩き方」のサイトの「ハワイの歴史」による。詳しいことは同サイトを見てください。) ハワイの王朝自身が米国への併合を求めていたという面もありますので、このような歴史の流れが良かったのか悪かったのか、それは誰にも評価できないでしょう。ただ、この地球の上では、そのような歴史の流れの中で、数多くの光の面と闇の面が作り出されてきたのです。おもてだけの紙もなければ裏だけの紙もないように、この地球の上では、常に光と闇が交錯していました。この地球は、闇を作らなければ、光を見ることもできない世界だったのです。そしてこのとき、私の心は、その歴史の闇に呑み込まれていったひとりの女王の物語に、強く捉えられていたのでした。
 
私たちは、マウイ島のカアナパリというところに泊まっていました。ホテルから15分ほど歩いたところに、ホェーラーズ・ヴィレッジ(鯨捕りの村)というショッピング・センターがあります。30軒ほどの店が集まった、あまり大きくないショッピングセンターですが、そこにホェーラーズ・ミュージアム(捕鯨博物館)という無料の博物館がありました。入ってみると、それは米国の捕鯨の歴史を展示しているところでした。ハワイの海岸には今でも鯨が現れますが、昔はこの近海でも捕鯨が行われており、また、ハワイの人たちはとても目がいいということで、遠洋捕鯨の船に乗って見張り役をしたそうです。優秀な見張り人は、10キロ先の海に吹き上がる汐の形を見て、鯨の種類や頭数を言い当てたそうです。そのような展示を見て回りながら、私はここでもまた、歴史の闇の面を意識に上らせてしまいました。一つは、捕鯨という男だけの世界の荒っぽさです。若いときの私は人並みにそのような男っぽい世界への憧れも持っていたのですが、今の私には、その世界の人間性の未熟さという負の側面しか見えませんでした。そして、もう一つが、人間が鯨というものに対して行ってきたことの残虐さです。いま、世界的規模で、捕鯨が是か非かという論争が続いていることはご存知と思いますが、鯨が解体される写真や、鯨に打ち込んだ銛の実物を見ていると、ここにも人間の歴史の闇の面があったのだと思わざるを得ませんでした。
 
今回はこのような話ばかり書いてきたので、読まれた方も重苦しい気分になられたかも知れません。けれども、私が言いたいことは、このあとなのです。このような闇の面にばかり意識を集中していたせいで、私は帰ってきてから、ただひとり、軽いインフルエンザの症状を起こして、三日ほど寝込んでしまいました。一緒に行った妻や息子夫婦とも、集まった両家の親戚とも、ほとんど一緒に行動して、特別に人ごみに行ったわけでもなく、危なそうな人のそばによったわけでもないのに、どうして私だけが病気になったのでしょうか。

人間の歴史には、数多くの闇の部分があります。それを知ることは大事なことですが、それに過度にとらわれて心の中で非難したり、罪の意識にとらわれて自分を責めたりすると、エネルギーレベルが下がってしまいます。そして、ちょっとしたことで怪我をしたり、病気になったりします。本当に必要なことは、闇の部分を知るだけでなく、それを「ゆるす」ことなのです。ゆるして解放し、自分の心をその闇のエネルギーから引き離さなければならないのです。闇の部分を知ることによって悲しみの感情が沸き起こってきたときには、それをしっかりと抱きしめてよく味わってあげ、その次に、それを宇宙に向かって解き放してください。宗教を信じている人は、それを神さま、あるいはみ仏のもとへ送り返すと考えてください。水蒸気が高く高く立ちのぼって行くように、あなたの心から放出された悲しみの感情が高く高くのぼって行き、宇宙の魂にまで帰っていって、そこで分解され、新しい生命のエネルギーになるのだと想像してください。あなたの周りに悲しみの感情がを付きまとうままにしておくと、雲がやがて雨になって戻って来るように、悲しみの感情は悲しみの出来事になって戻ってきます。けれども、高く高く上っていった水蒸気が、太陽光線の強い紫外線を受けて酸素と水素に分解されてしまうように、悲しみの感情は、宇宙の魂のところまでのぼって行くと、分解されて新しいエネルギーになるのです。世界をゆるすということは、自分をゆるすということです。自分が世界を見る目を清めるということです。

地球の未来を塗る色は、過去の地球に塗られていた色ではありません。いま、現在、私たちの心の中にある色が、未来の世界の色をとなるのです。過去を知るだけでなく、過去をゆるし、解放し、闇の歴史を抱えた砂浜にハイビスカスの炎のような花が咲くように、あなたの心の中を明るい光と、明るい感情で、染め上げてください。それが、あなたの世界の未来になるのです。





2005年2月16日掲載
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