霊性の時代

A12 般若心経






般若心経(はんにゃしんぎょう)は、最も短いお経といわれます(付記1)。実際それは、岩波文庫の1ページに納まってしまうくらいの短いお経なのです。けれども、それはたいへん重要なお経だと考えられています。

以下に掲載したのは、私がサンスクリット(付記2)から直接訳したものですが、読みやすいようにいくらか手を入れていますので、意訳と言ったほうがいいかも知れません。私の解釈は、いわゆる正統的な解釈とはかなり異なっていると思います。正統的な仏教でどう読まれているかを知りたい方は、しかるべき書物などを参照してください。(付記3)


全知なる者を拝したてまつる

聖なる観世音菩薩は、深い深い超越意識の状態において、次のように真実を見極められた。すなわち、すべての存在は、物体、感覚、認識、意志、理解という5種類に分類されるが、そのいずれもが、本当は幻(まぼろし)にすぎないと見抜いたのである。
いいか、シャーリプトラ(人名)、この世界においては、物体は幻であり、幻が物体として現れているのである。幻でない物体はなく、物体は幻以外の何ものでもない。物体と見えるものはすなわち幻であり、幻がすなわち物体と見えるのである。
残りの分類である感覚も、認識も、意志も、理解も、すべて同様である。
いいか、シャーリプトラ、この世界に存在するものはすべて幻であるから実体がない。すべては無である。したがって、それは生まれることもなく、消滅することもない。けがれることもなく、きよくなることもない。減ることもなく、増えることもない。
それゆえ、シャーリプトラよ、すべては無であるから、物体も、感覚も、認識も、意志も、理解もないのである。眼も耳も、鼻も舌も、体も心もない。形も、音も、香りも、味も、触感もなく、何かが存在するということすらもない。目に見える世界も、心の中の世界もない。
悟りもなければ無知もなく、悟りがなくなることもなければ、無知がなくなることもない。老いも死もなく、老いや死がなくなるということもない。苦しみもなく、欲望もなく、無欲になることも、修行して何かに到達するということもない。知ることもなければ、得ることもない。
菩薩(仏道を極めた人)の超越意識においては、心を曇らせるものがない。心を曇らせるものがないので、怖れがなく、幻想を真実と思い込むこともなく、静寂至福の境地にとどまっているのである。
過去、現在、未来のすべての世界において、悟りを得た者たちは、ひとり残らず、この超越意識によって最高の悟りに到達したのである。
それゆえに、知るべきは、超越意識の大いなるマントラ(付記4)である。それは、大いなる悟りのマントラ、無上のマントラ、無比のマントラ、一切の苦しみを取り除く、偽りのない真実のマントラであり、観世音菩薩が超越意識において唱えられたマントラである。
それは次のとおりである。 
   『到達せる、到達せる、彼岸に到達せる、彼岸に完全に到達せる、この悟りよ、祝福あれ!』
これが、超越意識の教えの神髄である。



お釈迦様は、いまから2500年ほど前、現在のネパールの辺りにいたシャカ族の王子としてお生まれになりました。王子の身分として何不自由なく暮らしておられたはずですが、あるとき王宮を出て外の世界を見たときに、貧しい人や、病気や老衰のために死んでいく人があることを知り、人々をこの苦しみから何とかして救いたいと思うようになり、ついに王族の身分を捨てて出家されました。それから6年間、お釈迦様は厳しい修行をされましたが、ついにこのような方法では目的を達せられないと考え、苦行を捨て、川のほとりの菩提樹の下で、瞑想をされました。そして、49日の瞑想の後に、ついに悟りを開いた、と伝えられています。
 
お釈迦様の悟りとは、いったい何だったのでしょうか。
 
私は、それがこの般若心経に説かれている教えであると考えています。お釈迦様は、さまざまな苦しみが存在するこの世界というものが、すべて幻だったのだ、ということを発見されたのです。それは、悪夢に悩まされていた人が、夢から醒めて、「ああ、よかった、あれはみんな夢だったんだ」というときの喜びと同じような喜びだったと思います。言い伝えによれば、お釈迦様はもうこのまま死んでもいいと思われたそうです。けれども、「帝釈天(たいしゃくてん)という神様が現れて、人々にこれを伝えなさい」と言ったので、思い直して、人々に教えを説き始めたそうです。
 
物質世界は幻想です。単に、物体が幻想だというだけではありません。その物体を見たり触ったりして、ここに何かがあると感じる私たちの感覚も、それを机だとか自動車だとか識別する私たちの認識も、それをどうしようという私たちの意志や欲望も、それらのすべてによって作られる私たちの生存の体験全体も、すべてが幻想なのです。私たちの肉体も、心も、思考も、感情も、すべて幻想です。存在すると思われるものはすべて無である、何もないのだと、般若心経は繰り返しています。
 
けれども、物質世界が幻想である、ということは、幻想でない世界があってはじめて意味のある言葉です。悪夢に苦しんでいる人に向かって「これは夢だぞ」と言っても、夢でない世界があって、夢から醒めることができるのでなければ意味がありません。お釈迦様が、この世界は幻想であると見抜いたということは、幻想でない世界があり、私たちが、その世界に目覚めれば、一切の苦しみから解放される、ということを意味しているのです。その幻想でない世界を「彼岸(ひがん)」と言います。「向こう岸」という意味です。川のこちら側は幻の悪夢の世界です。川の向こう側は真実の至福の世界です。私がほかのページに書いている言葉で言えば、彼岸とは霊的世界のことです。それは、完全であり、愛と光と生命の世界です。
 
この世で実際に苦しんでいる人は、それが幻想であると知っただけでは救われません。その幻想から醒めたときに、はじめて救われるのです。そこで、幻想から醒めるための方法が必要になります。そのために、さまざまな教えや訓練や修行の方法が生み出され、教えられました。それらの方法は無数にあるでしょう。これからも、いろいろな方法が考え出されるかも知れません。どの方法をとろうと、幻想から醒めることができればそれでいいし、醒めることができなかったら、その方法はすくなくともその人にとっては役に立たなかったということです。
 
幻想から醒めた状態を般若(はんにゃ)といいます。般若というのは、サンスクリットの原語に漢字の音を当てはめたものですが、正統的な仏教の書物では「智慧」と訳されることが多いようです。私は、直訳すれば「超知」と訳すべきだと思いますが、ここでは超越意識と訳しました。般若というのは、智慧や知識ではなく、意識の状態だと考えるからです。それは、私たちが普通持っている意識状態から、はるかにかけ離れた意識状態であって、その状態にある人にとっては、本当に物質世界は映画のような架空の現実であることがはっきりわかってしまうのです。たとえその映画の中にどんなに恐ろしい場面が描かれていても、それが映画であるとわかっていれば、怖くはありません。映画の中で「自分が殺された」としても、それが映画であると知っている人は、自分は死んでいないことがわかっています。般若とは、そのような意識状態のことです。
 
私たちは、いま持っている肉体の意識を基準にして考えますから、「私たちが超越意識という特殊な意識状態になる」という表現を使います。そして超越意識というのは非常に特殊な意識状態だと考えています。けれども、本当は、超越意識の状態が正常なのであり、普通の意識状態のほうが異常なのです。超越意識の立場からみれば、普通の意識状態は夢を見ているようなものなのです。私は人間が霊性を回復するという言い方をします。それは般若心経の言葉で言えば、彼岸に到達するということであり、般若を達成するということです。それは、常時、超越意識の状態にあるということであり、それが夢から醒めるということなのです。
 
お釈迦様は、2500年も前にそのことに気づき、夢から醒める方法を教えられました。それで、お釈迦様に対する尊敬の呼び名の一つとして、「全知なる者」という称号がつけられました。般若心経の最初には「全知なる者を拝したてまつる」という献辞が書かれています。私も「全知なる者」に礼拝してこのページを終わります。

2005年2月7日掲載


(付記1)般若心経のテキストについて:
般若心経は短いお経ですが、それでもその原本がどのようなものであったかについては、いろいろの写本があって、確定されていません。私は涌井和著『般若心経を梵語原典で読んでみる』(明日香出版社)を参考にしました。この本は原典として、マックス・ミュラー本といわれるものを採用しています。
 
(付記2)サンスクリットについて:
「サンスクリット」というのは古代インドの言語の名前です。日本語の文語に相当するようなものと思えばいいでしょう。サンスクリットは、インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる広大な言語一族のメンバーで、ギリシャ語、ラテン語をはじめ、英語、フランス語、ドイツ語、イタリヤ語などの現代ヨーロッパの大部分の言語と兄弟関係にあります。

(付記3)正統的な解釈について:
般若心経の正統的な解釈を知りたい方は、たとえば、次のような本を読まれるのがいいと思います。
  中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』岩波文庫
  金岡秀友校注『般若心経』講談社学術文庫

(付記4)マントラについて:
最近は瞑想をされる方も多いので、マントラという言葉にもなじんでおられる方が多いでしょう。一般には呪文(じゅもん)と訳されますが、正統な仏教の用語としては真言(しんごん)などという訳が使われます。真理を端的に宣言する言葉という意味ですが、いわゆるトーニング(発声)と同じように、音の響きそのものがある働きを持っていると考えられているので、普通は他の言語には翻訳しません。お坊さんが漢訳の般若心経を読まれるときにも、ここはサンスクリットの原音に近い漢字をそのまま音読されます。参考までに、その発音を以下に書いておきます。
    ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハ。 
お坊さんによっては、次のように読まれる方もあります。
    ギャーテイ、ギャーテイ、ハーラーギャテイ、ハラソウギャーテイ、ボーディ、ソワカ。


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