霊性の時代

A10 心を統合する



私たちはふつう、心というものはひとつのまとまったものであるかのように感じています。けれども、本当は、心というのはいくつもの要素的な機能の集まりなのです。ちょうど肉体がたくさんの細胞からできているように、心もいわば心の細胞からできているのです。それは、たとえて言えば、会社のような組織体です。 

会社の組織がそうであるように、これらの心の要素機能も、小さな生き物のように、それ自体の意志をもち、自律性を持っています。これらの要素的な小さな心を、ある人は副人格(サブパーソナリティ)と呼び、ある人はインナーチャイルドと呼びます。人間の心は、このような自律性を持った心の細胞がたくさん集まって一つの心として機能しているのです。それは大勢の人が集まって会社を作るとき、それらの個人はそれぞれ自分の意志を持ち、自律性をもって動いているにもかかわらず、全体としては一つの会社としてまとまった仕事をするのに非常によく似ています。
 
けれどもいま、私たち人類の心は壊れています。これはいろいろな人が違った考え方をするという意味ではありません。ひとりひとりの心がバラバラに壊れているのです。心の細胞に相当するたくさんの小さな心が全体として一つにまとまって機能しなければならないのに、それがバラバラに動くようになってしまっているのです。会社にたとえれば、会社の中のいろいろな組織が自分勝手に動いていて、全体としてまとまっていないようなものです。そのため、会社として有効な働きもできず、大きな力を出すこともできません。

私たちの心は、ある部分がひとつのことを考えていても、他の部分がそれを疑っていたり、反対の考えを持っていたり、まったく無関係なことを考えていたりします。理性の部分が何かしようとしても、感情の部分がそれを受け入れなかったり、過去の記憶の部分が「この前はうまくいかなかったぞ」といって反対したりします。そのうえ、私たちの心の大部分は「無意識」あるいは「潜在意識」と呼ばれています。それは、私たちがその部分を「自分の心」だと認識していないということを意味します。私たちがいま「自分」として意識している部分は、自分の心のほんの一部分だけなのです。他の部分は「自分の心」ですらなくなっているのです。それはもう、会社が分裂してしまって、お互いに別々の会社だと思っているようなものです。
 
けれども、このように人間の心が壊れているのは、間違って、あるいは偶然に、そうなったわけではありません。人間が霊性を失ったということと、心が乱れているということは、実は同じことなのです。A1 霊性の時代とはで述べたように、本来霊的な存在であった人間は、自分の霊性を忘れて物質世界のバラバラの存在になる、という体験を意図して選んだのです。そして、そのためには、心を分解することが必要だったのです。

霊的存在とは、本質的に、自分自身の心を体験する存在です。もし心がひとつに統一されていたら、その人が体験する世界は完全に統一の取れた完璧な世界になったはずです。けれども、人間は自らの心を分解し、「自分」と感じる部分を極端に小さく制限し、それ以外の部分は自分では制御できない部分であるということにしました。これによって、人間は、自分以外のあらゆる存在から切り離され、孤立した、独立の存在であると感じるようになったのです。
 
私たちが見たり聞いたりさわったりしている「世界」は、自分の心が投影している三次元映像です。それがどんなに素晴らしい映像であるか、このページの始めに美しい写真を載せておきましたが、自然の美しさひとつを考えて見ても納得がいくと思われます。けれども、その美しい世界の中に、私たちは争いや戦いや悲惨なできごとの映像も映し出します。そして、それらの「事件」に対して、自分がどれほど無力であるかということを感じます。私たちが無力であるのは、そのような世界を映し出している部分が、「自分の心でない」とされた部分だからです。「自分」から切り離した部分ですから、それをコントロールすることはできません。そのために、私たちは絶えず世界に対して無力感を味わうのです。自分を無力であると感じることによって恐怖が生まれます。恐怖は疑いを生み、疑いは不信を生み、人はそれぞれ自分を守るために、なけなしの知恵と力を注ぐようになってきます。「なけなしの」と言った意味は、「自分」という部分を非常に小さく制限していますから、それが使える智恵も力も非常に小さなものになっているからです。このようにして、現在あるような人間社会が作り出されたのです。
 
私たちは、そのような美しさと恐ろしさをあわせもった世界を背景にして、数限りない美しいドラマを作り出してきました。どのような悲惨な環境の中においても、人間の魂の気高さと美しさを表現できることも実証してきました。けれども、それはどこかに悲しみをともなった美しさでした。私たちの世界では、美しいものにはつねに悲しさがつきまとっています。それは、それらがこのような壊れた心という土台の上に作られているドラマだからです。それは、あらゆる存在が他の存在から分離した存在であるという仮想現実の上に作られている「分離のドラマ」だからです。
 
けれどもいま、そういう「分離のドラマ」を終らせるときが来ています。人類はふたたび霊性を取戻そうとしています。それはすべてが一体であるという世界です。すべてが一体というのは、具体的な姿としてはなかなか想像しにくい世界ですが、組織がうまく統合されて機能している会社を思い浮かべてみると、わかるのではないでしょうか。そのような会社でも、社員のひとりひとりは、それぞれ独立した人格であり、独自の考えと感性と意志をもっています。けれども、すべての社員は目的を共有し、その目的を達成するために自分の持っている能力と時間を提供し、互いの足りないところを補い合いながら、喜びと誠意をもって働いています。そのような会社では、社員はみなその会社に所属していることを誇りに思うでしょう。すべてが一体であるという世界はそういう世界です。もしあなたがそういう世界に住みたいと思うなら、バラバラになっているあなたの心を統合しなければなりません。バラバラになった世界は、バラバラになった心の投影だからです。
 
心を統合するための方法を、さまざまな宗教が伝えています。座禅や瞑想や祈りもそうです。次にあげるのも、その方法のひとつです。けれども、人間の心はひとりひとりみんな違います。最終的には、自分で自分にあった方法を見つけなければなりません。そのためのひとつのヒントと考えてください。
 
静かにからだをやすませ、心を落ち着かせて、「愛のエネルギー」が神から――神を信じない人は「宇宙の中心から」と考えてください――あなたのハートに流れ込んでくると想像してください。それから、そのエネルギーがあなたの体と心に満ちあふれ、そして体の外へ流れ出し、世界のあらゆる部分に流れて行く様子を思い描いてください。心の細胞のひとつひとつにエネルギーが流れ込み、その細胞がきらきらと輝く様子を心の目で見てください。あなたの心の中にどのような思いや感情が潜んでいるかに注意を向け、もし何かの思いや感情が浮かんできたら、それをじっと心の中に抱きしめてください。それから、その思いや感情にとらわれずに、そっとそれを手放してください。自分の中にあってはならないと思うような「悪い」思いや感情であっても、驚かず、あわてず、ただ黙って抱きしめ、それから黙って手放してください。

心の中に愛のエネルギーが流れ込んでくるにつれて、心のさまざまな部分が癒され、そしてあなたの心に統合されていきます。統合が進んでいけば、あなたは自然に落ち着きと平安を取戻し、優しくなり、安定し、力強くなります。何かを怖れたり、憎んだりすることが少なくなります。怖れや怒りは、心が分断されていることによって生じるからです。さらにすすめば、世界がなぜか美しく見えるようになります。世界は雨上がりの朝のようにみずみずしく輝き、生命にあふれているように思えます。人がどのようなことをしていても気にならなくなります。あなたの心には常に平安と喜びがあるからです。それが統合された心が生み出す世界です。
 
むつかしいのは、初期の段階です。心がバラバラになった状態では、愛のエネルギーがなかなかスムーズに心の中に入っていきません。それは愛エネルギーの流れを想像している心の横で、「そんなことをしても何にもならないよ」とか「愛エネルギーなんて嘘っぱちだ」などと思っている心があるからです。したがって、はじめは本当に何の進歩もないかのように感じてしまいます。そうすると、反対意見をもっていた心の部分が「それみたことか」と勢いよく叫ぶのです。けれども、これは根気よく努力するほかはありません。反対意見をもっている心の部分と喧嘩をするのではなく、優しく無視して、静かに、しかし断固たる決意を持って、ただ愛エネルギーに意識を集中するという努力を続けてください。心の他の部分が少しずつ仲間に加わるにつれて、次第に楽に進めるようになってきます。
 
世界には60億の人間がいます。世界が美しくなるには、みんなが心を統合しなければならない、と思って絶望を感じる人があるかも知れません。確かに、世界中の人全員がいっせいに統合された心の持ち主になることは、かなりむつかしいかもしれません。けれども、あなたが「統合された世界」に住むためには、あなたの心が統合されれば、それで十分です。あなたが見ているのは、あなたの心の中であって、誰か他人の心を覗いているわけではないからです。もしかしたら、これがいちばん納得しにくい点かもしれません。私たちは、客観的に存在する世界を、客観的に見ていると思っています。したがって、だれか「悪い人」がいれば、自分は平和になることができない、と思うのです。けれども、私たちは、だれも他人を「客観的」に見ることはできません。私たちが見るのは、自分に見える他人の姿であって、それは、その人本人が見ているその人の姿とも、誰か別の人が見ているその人の姿とも違っています。私たちは「自分が見るものを見る」以外のことはできないのです。そして「自分が見るもの」とは「自分の心の中にあるもの」です。あなたの心の中に「悪い人」がいなくなれば、あなたは決して「悪い人」をみることはなくなるでしょう。これは頭で考えても理解できないかもしれません。けれども、あなたの心が愛エネルギーに満たされ、あらゆる心の部分がひとつに統合された状態になったときには、なぜかこれが真実であったことがわかるでしょう。

2003年7月18日

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