霊性の時代

A4 宇宙の霊的な構造


存在するもののすべてを「宇宙」と呼びます。宇宙の中に存在するものには、さまざまな種類のものがあり、物質的なものも非物質的なものもあります。それらはそれぞれ納まるべき位置があるのですが、とりあえずそのことは後回しにして、すべての存在の総体を宇宙と呼びます。この宇宙には、最も根源的な存在があります。それをこのサイトでは単に「神」と呼びます。

これまで、古今東西のさまざまな宗教や哲学が、神についての独特の定義や教義をつくってきたので、最近では、神という言葉に特定の宗教の雰囲気がまつわりつくのを嫌って「大いなる一」「大いなるすべて」などという新しい名前を使う人たちもいます。また、神というと人間のような人格的存在が連想されるので、それを嫌って、真理、法、道、空などという非人格的な名前を好む人たちもいます。

けれども、どのような名前を選んでも、何かの観念や語感を伴わない名前はありません。仮に無意味な音を連ねて新しい名前を作ったとしても、しばらく使っているうちに特有の語感が生まれてきます。それは、人間が言葉という道具を使う限り避けられないことです。名前にこだわるよりも、どんな名前にも左右されない神についての理解を確立することのほうが重要なのです。さらに、神についての正しい観念を持つことよりも、実際に神と接触し、神との交わりを持つことのほうが、もっと大切なのです。そういう意味で、このサイトでは、もっとも古典的な「神」という名前をそのまま使うことにします。

中世のキリスト教神秘思想家マイスター・エックハルトは「神は存在であると言うならば――それは真ではない。神はむしろ一つの超存在的存在であり超存在的無である」といいました(上田閑照『エックハルト』講談社学術文庫)。古くから多くの思想家が「神はあらゆる観念を超えている」と言い、それを言葉に表現するために苦心してきました。エックハルトは、神は「存在」という観念さえも超越している、と言っているのです。

人間にとって存在という観念は最も根源的なものですが、神はそれさえも超えています。存在という観念が神を規定するのではなく、神が存在を規定するのです。それを承知の上で、私は神を「根源的存在である」と簡単に述べます。人間の言葉の能力不足に付きあっていてもきりがないからです。けれども、あとで述べるように、私は存在には階層があると考えています。これによって、少なくとも人間の存在のレベルでは、神が存在も非存在も超えているという事情を、少しは理解できるようになるのではないかと考えます。

神が「根源的存在である」というのは、神のほかには何も存在しないということです。根源的な意味では、神以外には何も存在しません。そういう意味では、神というのは、最も根源的なただ一つの存在に、ただ「神」という名前を付けただけのことです。神という名前が気に入らなければ、それ以外の何と呼んでもかまわないのです。神にとって名前は無意味です。旧約聖書には、いまから4000年ほど前、のちにイスラエル民族をエジプトから救い出すことになる青年モーセが神に名前を聞いたとき、神はただ「私は私である」と答えたという話が伝えられています。神は、名前を付けることを拒否したのです。ただ一つしかない存在には名前など必要がないのです。

神には名前がないだけでなく、形もありません。なぜなら、形のあるものには必ず外側があります。けれども、神のほかには何も存在しないのですから、神の外側というものはないのです。神には大きさがありません。なぜなら、大きさとは空間の中に広がっている程度をいうのですが、神のほかには何もないのですから、空間というものもないのです。もちろん時間もありません。私たちは、空っぽの空間は想像できますが、空間もないという状態はなかなか想像できません。時間がないということも想像できません。けれども、何とかして空間も時間もないという状態を想像してください。「時間も空間もないところに、ただ神だけがある」・・・それが根源的存在ということです。

根源的な意味では、存在するものは神だけです。神以外には何も存在しません。けれども、私たちは、神以外のさまざまな存在を知っています。これらはいったい何でしょうか。これらはすべて、神が直接的あるいは間接的に生み出したものです。これらを「被造物」と呼びます。これらの被造物は、神の外に存在するわけではありません。なぜなら、神以外には何もないのですから、神の外というものはないからです。被造物はすべて「神の中」にあります。神を巨大な袋であると考えてください。神以外のものはすべてこの袋の中にあるのです。袋の外というものはありません。この袋は無限に大きいので、あらゆる物はこの袋の内部にあるのです。

神を万物を入れる袋にたとえましたが、神は物体ではありません。人間の言葉で描写するなら「心」であるというのが一番適切だと思います。強力な思考力、想像力、意志、意識、精神力、生命力を持った巨大な心です。心には、大きさも形もありません。それはただすべてを思い描くことのできる能力であり、力そのものです。神は、その強力な思考によってすべての被造物を作り出します。神によって創られたものは、すべて神の「神の意識の中」にあるのです。それは、私たち人間が想像によってさまざまなものを心の中に思い描くのと同じです。神以外の存在はすべて、神の意識の中にある神の想念です。

被造物のすべてが神の想念であるとすると、被造物の自由意志というのはどうなるでしょうか。人間は神のロボットなのでしょうか。けれども、これはそれほど難しい問題ではありません。神は自由意志をもった被造物をつくり出すことができるのです。神は思考によって、すべての被造物を自らの意識の中に作り出します。このとき、もし神が、これは自由意志をもっている、と思考したらどうなるでしょうか。そのものは、神の意識の中で、自らの意識をもち、自らの意志をもって生きはじめます。神の意識の中に、生命をもち、自ら思考し、自ら認識し、自らの意志をもつ生命体が存在すようになるのです。これが、神による生命の創造です。人間も、そのような生命ある存在として、神の意識の中につくり出されました。聖書には、「人間は神に似せてつくられた」という言葉が出てきます。それはこのようなことを意味しているのです。人間は、神の思考によって神の意識の中につくり出されたものですが、神と同じように、自分自身で存在し、自分の意識をもち、自分の意志をもって生きるようにつくられているのです。

神は巨大な心であり、その強力な思考力によって、あらゆるものを自らの意識の中に生み出します。けれども、私たちが知っている存在のすべてを、神が直接生み出しているわけではありません。神が直接生み出した被造物を第一次の存在と呼ぶことにします。それは、神の思考によって創られたものですが、もし神がそれに自由意志を与えるなら、それはまるで自分ひとりの力で生きているかのように、自分の意識をもち、自分の意志をもち、独立した生命体であるかのように、神の意識の中を生きはじめます。そして、このような第一次の存在は、神と同じように、思考によって自分の意識の中に新たな存在を生み出します。これを第二次の存在と名付けます。

このようにして、存在するものに階層構造が生まれます。皆さんは、夢の中で夢を見るという経験をしたことはありませんか。夢から覚めたと思ったら、またそこが夢の中で、あとでもう一度目が覚めてびっくりします。第二次の存在というのは、神から見れば夢の中の夢のようなものです。このような階層がどのくらいあるのか分かりませんが、少なくとも第二次まであることは確かです。このサイトでは、第一次の存在を霊的存在と呼びます。第二次の存在は物質世界です。人間の肉体も物質である限り第二次の存在です。肉体の人間も思考力を持っており、小説や映画や演劇の中で仮想の世界を作り出します。最近ではコンピュータの中に仮想の世界がたくさんつくられています。これらは第三次の存在といってよいでしょう。

ある存在にとって、自分と同じ階層の存在は「現実」と感じられます。これに対し、自分を生み出した上位の存在は「真実の存在すなわち実在」と感じられます。これはプラトンのイデアのようなものです。これに対し、自分が生み出したものは仮想的存在と考えられます。それは、私たち人間が作り出す仮想現実、すなわち小説や映画やコンピュータの中の架空の世界のようなものです。

現在私たちは、肉体が人間であると思っており、物質世界が現実であると思っています。けれども、本当はそうではありません。人間は本来、第一次の存在である霊的存在であり、物質世界はこの霊的存在が自分の意識の中に生み出した第二次の存在、つまり仮想現実なのです。古くから多くの宗教が、人間が霊的存在であり、物質世界は幻想であると教えています。けれども、このことを的確に表現するイメージが描けないため、人間はこの教えを誤解し、歪曲し、次第に無視するようになってきました。これが多くの宗教に共通する歴史です。■ 

2002年6月15日 掲載

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